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戦時中の厳しさ、通知表に表れ 千葉空襲経験の女性「事実知って」


 太平洋戦争末期の1945年5~7月に起きた「千葉空襲」では多数の犠牲者が出た。千葉市中央区の伊東夫美さん(89)は同空襲を経験したが、最も大きな被害が出た「七夕空襲」と呼ばれる3回目の空襲の2日前に土睦(つちむつ)村(現在の睦沢町)の親戚宅に疎開した。15日は78回目の終戦の日。伊東さんに戦時中や終戦の日の記憶をたどってもらった。

 「よく助かって生き延びたと思います」。自身が直接、経験した千葉空襲をこう振り返った。伊東さんは当時、小学生で空襲警報が鳴ると、2歳年下の弟・暢男(のぶお)さんの手を引いて、命からがら防空壕(ごう)に逃げ込んだ。低空で飛びながら機銃掃射する米軍の飛行機のパイロットと目が合った光景は今でも忘れられない。

 同市の中心部で、現在の県庁の辺りにあった伊東さんの家は、延焼で被害が広がらないようにするために取り壊されることに。強制的に家を追われ、両親ときょうだい4人の一家は父親の実家があった土睦村に疎開した。

 命は助かったが、家財道具は全て丸焼けに。疎開先で生活費を稼ぐために慣れない農作業などを手伝った。疎開先で通った小学校へは砂利道を往復8キロ歩き、履いていたゲタは1週間で鼻緒が切れて、歯は擦り減った。

 1945年8月15日のことは鮮明に覚えている。日差しが強く、暑い日だった。疎開先の家の裏で水をくんで空を見上げていると、大人たちが「正午に天皇陛下の話があるらしい」と話す声が聞こえた。その後、部屋の光が漏れないように電灯につけていた黒い布を取り外した。しかし、戦争は終わったはずなのに、その後も生活は苦しいままだった。

 今年、伊東さんの家からは、当時をしのばせる通知表などが見つかった。疎開前に通っていた現在の市立本町小学校(千葉市中央区)時のものと、疎開先のもので、見比べると戦争が激化するに従って、冊子だった通知表は徐々にページ数が減り、疎開先の学校では1枚の紙に。伊東さんは「このような通知表からも戦争中の厳しい生活の様子が分かると思う」と話す。

 伊東さんは「戦時中は補償もなくいきなり家を壊されたり、竹やりを持って訓練をしたりというのが日常だった。戦時中を経験した日本人は減っているが、話を聞いてもらい、少しでも戦時中や戦後直後の事実を知ってもらえたら」と話した。【長沼辰哉】

千葉空襲

 太平洋戦争中、千葉市はたびたび空襲を受けた。中でも1945年6月10日朝と7月7日未明の空襲では、中心市街地の約7割(約231ヘクタール)が焼け野原となり、1595人が死傷、被災者は4万1000人以上に及んだとされる。

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