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にんげんをかえせ 原爆投下78年 戦火の現代に峠三吉は何を思う


 にんげんをかえせ――。核戦争の恐怖に揺れる現代に、原子野の荒涼を歩き70年前に没した詩人が発した警告が響く。崩れぬ平和を実現するために何をなすべきか。時代を超えて世界に問うている。

 傑作として読み継がれる「原爆詩集」を残した詩人、峠三吉(1917~53年)の詩碑は、広島市中区の原爆資料館に近い平和記念公園の一角にある。命日の3月10日を前にした5日、市民団体「広島文学資料保全の会」が企画した没後70年の碑前祭が営まれた。

 有名な序文が刻まれた石碑前には、広島県内外から約100人が集まった。没後50年以来という碑前祭に大勢の足を運ばせたのは、戦火のやまないウクライナの情勢と、日本を取り巻く安全保障環境の急速な変化だ。

 米軍が原爆を投下した1945年8月6日午前8時15分、峠は広島市翠町(現広島市南区)の自宅にいた。「原爆詩集」の発刊は51年。朝鮮戦争で3度目の原爆が使用される危機感が峠を駆り立てたとされる。占領下にあった日本は言論統制が敷かれ、米国批判につながる原爆の報道・出版は厳しく制限されていた。初版は自費出版でガリ版刷りの500部だった。

傑作詩集、今だ終わらぬ役割

 「命を懸けて原爆詩集を書いた峠さんは今、何を思っているだろう。怒っているのか。深い悲しみで今の状況を見ているのではないか」。黙とうに続いてあいさつに立った保全の会顧問で広島大名誉教授の水島裕雅さん(80)=千葉県東金市=は語りかけた。「人類の終末時計はゼロに近づいている。『何とかしろ』と峠さんに言われている気がする」

 詩碑は峠の死から10年後の63年、原爆慰霊碑を見渡せる場所に建立された。8月6日にあった除幕式には、当時の市長も出席したという。建設の中心になったのは反戦文化運動の盟友だった画家の四国五郎(1924~2014年)で、黒い御影(みかげ)石に文字を白く抜いた設計や資金集めなどに奔走した。四国の長男、光さん(66)=大阪府吹田市=は「父は『にんげんをかえせ』とは、『人間性をおしつぶす全てのことを絶対に許さない』という意味だと言っていた。核兵器が存在する限り、この詩集の役割は終わらない」と力を込めた。

 献花に続き、原爆文学を研究する大学生や、峠と知友を描いた演劇作品「河」の出演者らが、「原爆詩集」に収録された4作品を朗読した。

原爆資料館で特別展 草稿や直筆日記

 原爆資料館地下1階の情報資料室で、峠の没後70年に合わせた企画展が開かれている。代表作「原爆詩集」の草稿や本人直筆の日記などで、普段は非公開の資料が特別展示されている。13日まで。

 「原爆詩集」草稿は最終稿とみられる原稿で、「序」8行に続いて赤ペンで書かれた14行の文章があり、他にも鉛筆で推敲(すいこう)した跡が残る。日記は「随意日記」などと記された2冊で被爆直後に目の当たりにした惨状や体験がつづられ、詩集刊行までの経緯をたどれる貴重な資料だ。

 草稿は峠の遺族から「広島文学資料保全の会」を介して寄贈され、日記は共産党中央委員会から寄託された。【宇城昇】

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