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誇りと繁栄もたらした本土復帰=不毛の地、有数の農業地帯に―ボリビアのオキナワ移住地・沖縄復帰50年


 南米ボリビア東部の主要都市サンタクルスから車で約2時間、一本道の先に突然、日本語で「めんそーれ オキナワへ」と歓迎する看板が目に飛び込んできた。琉球政府(当時)が米国統治下の1954年に始めたボリビア移民事業。地球の反対側へ渡ったウチナーンチュ(沖縄人)とその子孫ら約870人が、数々の苦難を乗り越え、開拓地「コロニア・オキナワ(オキナワ移住地)」で生きている。  「いつまでも米国の支配を受け続けてはいられなかった」。そう語るのは、現在の南城市から入植したオキナワ日本ボリビア協会の中村侑史会長(81)だ。米国の統治に息苦しさを覚え、21歳の時に農家の父を説得し、土地を売って一家で島を後にした。  あてがわれた「第3移住地」は、満足な道さえないジャングルだった。雨が降れば近くの川が氾濫し、未知の病にも苦しめられた。「琉球政府は、取りあえず人を送り出せれば良かったのか」と失望感に包まれたこともあった。  移住地は米政府の支援を受けたが、もらった重機には現地の土地に合わないものもあり、売って生活資金の足しに。水害などで暮らしが行き詰まった多くの移住者が、ブラジルなどに流出した。  移住地消滅の危機を救ったのは、72年の本土復帰に先駆けて米政府が67年に実施した移住地管理権の移管だった。「一人前の日本人になったという喜びでいっぱいだった。それまでは『あなたは日本人か』と問われても、そうだと言う根拠がなかった」。誇りの回復とともに、待ち望んでいた日本からの手厚い支援が始まった。  道路や診療所など移住地の基盤整備が飛躍的に前進。「ようやく人間が住める環境になった」(中村氏)ことで、農協を通じた大規模農業が盛んになった。古くは綿花、その後は大豆や小麦、サトウキビなどが当たり、今や1戸当たりの耕地面積は200~300ヘクタール。ボリビア有数の農業地帯として知られるようになった。「沖縄が日本に返還されていなければ、移住地はとうに消えていた」と中村氏は語る。  一方で、代を経て移住地の沖縄色や結び付きは徐々に薄まりつつあるように見える。かつては住民を挙げた結婚式や各種行事で絆が保たれていたが、非日系人口の増加や生活様式の変化でつながりは希薄に。移民2世で協会事務局長の比嘉智氏(55)は「新型コロナウイルスの流行で人的交流も途絶え、一歩後退してしまった」と肩を落とす。  移住者らが子弟教育のために運営する学校では、124人の児童・生徒のうち、日系は半数以下の49人。比嘉氏の長男で、日本語教師の悟氏(27)は「復帰50年は歴史としては知っているが、自分たちには遠い話。一時期、沖縄方言の教育があったが、維持するのは難しかった」と明かした。(コロニア・オキナワ=ボリビア=時事)。 (了)【時事通信社】
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