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4歳で死んだ弟の名を残したい 87歳兄、神戸空襲の碑に刻銘へ


 79年前の神戸空襲の犠牲者名を刻む大倉山公園(神戸市中央区)の慰霊碑で6月2日、市民団体「神戸空襲を記録する会」が刻銘追加式を開く。加わるのは、この2年間で判明した36人。そのうちの1人、4歳で亡くなった堺井昭光(あきみつ)さんは、兵庫県尼崎市に住む兄昭武(てるたけ)さん(87)が情報を寄せた。自分の年齢も考え、弟の死を公的な記録に残したいと思ったからだ。

 太平洋戦争末期の1945年6月5日、米軍機の大編隊が神戸に襲来し、焼夷(しょうい)弾の雨を降らせた。昭光さんは神戸市須磨区にあった自宅から母に手を引かれて逃げる途中、焼夷弾に含まれる油脂を浴びて全身に大やけどを負った。病院に運ばれたが「熱い熱い、水、水……」と喉の渇きを訴えて亡くなった。

 5人きょうだいの長男だった堺井さんはその場にはいなかった。国民学校3年で、現在の兵庫県たつの市に集団疎開していた。8月の終戦後、迎えに来た父に空襲で一番下の弟が亡くなり、家も焼けてしまったと告げられた。

 戦後、一家は尼崎市に移り住んだ。終戦まで鉄工所に勤めていた父は、家族を養うため屋台のおでん屋を始めた。母もパートで働いた。それでも食うや食わずの生活が続いた。堺井さんは高校を出ると家計を助けるため、ガス専門商社で働いた。妹も中卒で働きに出た。

 家に昭光さんの位牌(いはい)や遺影はなく、命日に特別なことはした記憶はない。「弟のことを忘れたわけではないが、家族それぞれが、その日その日を生きるのに必死だった」と振り返る。父母は80代で天寿を全うしたが、悲しい記憶だったためか、晩年まで昭光さんについて語ることはなかった。

「ずっとほっといてごめんな」

 堺井さんが空襲から80年近くたって、弟の死に再び向き合うことになったのはある偶然からだった。

 両親から引き継いだ自宅には、昭和20、30年代に周辺の映画館から集めた映画のチラシが100枚ほど保存されていた。「このまま眠らせておくのはもったいない」と思い、2023年12月、尼崎市立歴史博物館に寄贈の相談に出向いた。その時、学芸員と空襲の話題になり、弟が亡くなったことを話すと大倉山公園の碑の存在を教えられた。「私はいつ死んでもおかしくない年齢になった。昭光から『兄ちゃん、死ぬ前に僕のことをちゃんとしてよ』と言われた気がした」

 年が明けると、記録する会に連絡し、碑に刻まれることが決まった。「ずっとほっといてごめんな」。堺井さんは今、弟への謝罪の思いを口にする。腰痛が悪化し、手押し車がないと歩行が困難になったが、追加式には参列するつもりだ。

 記録する会が13年に建立した碑に刻まれるのは今回で2267人分となるが、1945年に120回以上あった神戸空襲で亡くなったのは8000人以上とされる。同会は「体験者が少なくなっており、時間との闘いになっている」として、犠牲者の名を残すため、親族や知人などからの情報提供を求めている。

 追加式は午前10時から。関心がある人の参加を呼びかけており、県立神戸鈴蘭台高校の生徒が、戦争中の飼い犬の体験談をもとに制作した紙芝居「愛犬はなのお話」を上演する。情報提供や問い合わせは同会事務局の小城さん(080・1419・8208)。【山本真也】

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