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自宅横に「復興拠点」建てた医師 借金をしてまでこだわる理由


 災害発生時に地元の人たちに活用してもらおうと、自宅横に自費で「災害復興拠点」を建てた男性が宮崎市にいる。開業医として地域医療に貢献する日高四郎さん(69)。阪神大震災(1995年)の被災地に医療支援で入った経験から、復興には被災者の体調を整える場所が大事と考え、決意した。手弁当で整備した思いを聞こうと、拠点を訪ねた。

 日高さんが拠点づくりに着手したのは22年春。隣人が空き家と土地を手放すと聞き、土地を購入した。その後、災害時に利用できる一軒家の整備を進め、23年4月に完成させた。拠点は木造耐震構造の2階建て延べ約110平方メートルで、今年1月に記者が訪ねると、1階部分に物資搬入や炊き出しができる駐車場が設けられていた他、備蓄米を置く場所も確保されていた。

 2階は12畳と6・7畳の休憩スペースがあり、動線を分けた男女別のトイレと風呂に、内階段と外階段からそれぞれ入室できる設計になっていた。災害で電気が止まった時のことを考え、太陽光発電と蓄電池も備えている。日高さんによると、同時に20人ほど身を寄せることができるという。開設には土地購入費も含め「80歳まで借金を返す日々が続く」ほどの費用がかかったそうだ。

 日高さんは拠点を「復興のスタート地点になる場」と位置づけている。将来、南海トラフ巨大地震などの地震や津波が発生してもトイレや風呂があり、着替えや食事を安心してできる場所があれば、被災者が体を休め、復旧作業に当たることができる。「災害で助かった人たちにここで元気になってもらうことで、復興の担い手を増やすことにつなげたい」と語る。

 拠点を作る構想は、1995年の阪神大震災の経験から生まれた。当時、日高さんは長崎市内の病院で勤務医をしており、系列病院の要請を受け、発生から約1週間後に甚大な被害を受けた神戸市へ入った。

 避難所の往診に回る中で目にしたのは、冷たい廊下や教室の床で寝込む被災者の姿だった。十分な水も薬もない環境。仮設トイレは寒風の吹く外にあった。ストレスから胃潰瘍を患う人も出た。「この環境では被災者の体力が戻らず、復興作業に当たれない。悪循環だ」と感じた。

 その年に地元に戻り、開業医の父の跡を継いだ。訪問診療で地域を巡りながら、頭をよぎったのは神戸の被災地のこと。宮崎空港近くの地元は、マグニチュード7以上の地震が何度も起きている日向灘を臨む。医院や高台にある自宅は海から約2㎞に位置し、地域の防災力を高める必要性を感じた。

 とはいえ「最初から『防災』を掲げても人は集まらない」と考えた日高さんは、道の草刈りから地域の絆づくりを始めた。患者家族や住民と休耕田に花を植え、憩いの広場を作り、餅つきもした。津波の被災者が高台に押し寄せることを想定し、仲間と備蓄米を作って地域で保管できないか話し合いもした。交流の輪は徐々に広がっていった。

 阪神大震災から約30年を経て完成した拠点。今年は能登半島地震が発生し、被災者が身を休め、復興に向かうための場所づくりが大切と改めてかみしめている。「どんな大地震がこれから起きても、たとえ想定外の事態が発生し備えが役に立たなかったとしても、乗り越えられる仲間を地域に増やしていきたい」。目指す地域防災の形に少しでも近づけたいと願っている。【塩月由香】

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