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奪われた畜産農家の誇り=「無残な子牛」忘れられず―福島・原発避難訴訟


 「骨と皮だけになって無残な姿で放置された牛たちがかわいそうで、ただただ情けなくて」。福島県浪江町立野地区で40年以上にわたり畜産農家を営んでいた男性(74)は、原発事故後に牛舎で見た光景を忘れることができない。手塩にかけた百数十頭の子牛が飢え死にした。農家の誇り、生きがいは奪われ、今は妻と2人で福島市内の復興公営住宅で暮らす。  自宅と牛舎は原発から約12キロの距離。商社の委託を受けて、多い時は約350頭もの子牛を育てていた。牛ふんの堆肥は微生物で臭いを抑え、近隣農家の好評を得ていた。  東日本大震災翌日の2011年3月12日、何の前触れもなく役場から「避難しろ」と言われて避難生活が始まった。食べ物を取りに自宅に戻った際、ドンという爆発音が聞こえ、原子炉建屋から立ち上る煙を目撃した。「もう戻れなくなるかも」と覚悟した。川俣町、猪苗代町などを転々とし、福島市に落ち着いた。  1カ月ぶりに戻ったが、牛舎で目にしたのは、至る所で骨と皮だけになり横たわる死骸。水路で力尽きた姿、無数のハエ、むっとする悪臭。「壮絶な光景だった。草は食べられない。水は飲めない。死ぬしかない」と振り返る。生き残った約20頭も殺処分された。  処分に同意した際は情けなさから涙すら出なかったが、国と東電への怒りは沸々とした。原告として一審福島地裁の法廷で「原発は安全だ、安全だと言っておきながら大事故を起こし、むごい殺し方をした」「誇りとやりがいある生業を奪われた」と陳述した。  「原発を許可したのは国」との思いで闘ってきた。立野地区は17年に避難指示が解除されたが、風評被害で畜産の再開は諦めた。「この年でできるとしたら野菜農家ぐらいだが設備投資への支援もない。自立にも目を向けてほしい」と訴えた。 (了) 【時事通信社】 〔写真説明〕東日本大震災前の牛の写真を手に持つ原告男性=14日、福島市
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