1980年代から、国内外の二輪レースをファインダーに収めてきた磯部孝夫カメラマン。その秘蔵フィルムをもとに、かつて数多くのファンを魅了したライダーやレースを振り返ってみたい。今回の主役は、世界最高峰の二輪レース、WGP(ロードレース世界選手権)で驚異のレイトブレーキを武器に戦ったケビン・シュワンツだ。




PHOTO●磯部孝夫(ISOBE Takao)

長い手足を生かした独特なライディングフォーム。速さだけなら誰にも負けない

ケビン・シュワンツは1964年6月19日、テキサス州ヒューストン生まれ。母と叔父がバイクとモーターボートの店を営んでいたことから、幼少時よりバイクに乗り始める。34というゼッケンナンバーは、ダートトラックで活躍した叔父から受け継いだものだ。




8歳の頃、シュワンツのレースキャリアはトライアルから始まった。その後、モトクロスもやるようになったシュワンツが初めてロードレースに出場したのは83年のことだ。早くも地元のトップライダーとなったシュワンツは、84年のシーズン終了後にUSヨシムラからテストのオファーを受け、そこでウェス・クーリーを上回るラップタイムを記録。ヨシムラの契約を手に入れてみせたのだ。




85年からシュワンツはヨシムラのエースライダーとしてAMAスーパーバイクで活躍する。86年のデイトナ200ではヤマハのエディ・ローソンに次ぐ2位を獲得。飛躍の年となったのは87年で、チャンピオンこそホンダに乗るウェイン・レイニーに譲ったものの、6戦中5戦で優勝を遂げたのだ。アメリカでその実力を証明することに成功したシュワンツは、88年から活躍の場をヨーロッパへ移した。87年からワークス活動を復活させたスズキに抜擢され、RGV-ΓでWGPを戦うこととなったのである。




88年の開幕戦となった日本GPで、シュワンツは世界中のファンの度肝を抜いた。前年王者のワイン・ガードナーやエディ・ローソン、ランディ・マモラといった強豪たちを尻目にデビューウインを飾ったのである。ロデオのようにRGV-Γを乗りこなすテキサスの若きカーボーイが、いずれ世界王者になることは約束されたようなものだった。




しかし、シュワンツはなかなか世界王者の座に就くことはできなかった。優勝を重ねても、同じくらいのリタイアがリザルトに残った。シュワンツのライディングスタイルは、”Do or Die.(やるかやられるか)”。ストレートスピードに劣るRGV-Γの特性をカバーするため、シュワンツは限界まで攻め続ける必要があったのだ。




アメリカでライバルだったレイニーは、WGPでもシュワンツの壁となって立ちはだかった。同じタイミングでWGPに昇格したにもかかわらず、レイニーは90年から3年連続世界王者になっていたのだ。アグレッシブなだけではレイニーに勝てないと悟ったシュワンツの走りが変わったのは93年だった。




この年、シュワンツは速さと安定感を高次元で両立した走りを披露した。第9戦までに4勝をあげ、勝ちを逃したレースでも表彰台に立ち続けた。しかし、第10戦ではミック・ドゥーハンに巻き込まれて転倒、左手首を骨折してしまった。ライバルに付け入る隙を与えたなくないシュワンツは、そのことを隠しながらその後のレースを戦うことに。ついにはレイニーにポイント逆転を許してしまうが、第12戦でレイニーはアクシデントでレースキャリアに終止符を打つ。その結果、シュワンツは「無冠の帝王」の称号を返上し、念願のシリーズチャンピオンを手にすることとなった。




だが、それはシュワンツのWGPキャリアの終わりの始まりでもあった。ライバルを失ったことで、シュワンツは燃えたぎる闘争心をどこにぶつければいいのか戸惑っているようにも見えた。ゼッケン1とともに走った94年は2勝をあげて意地を見せたものの、95年の第3戦・日本GPがラストレースとなった。




WGPでの優勝25回、ポールポジション29回、ファステストラップ26回。記録も立派だが、レイニーを驚異のレイトブレーキングでうっちゃった91年ドイツGPなど、ファンの記憶に残る走りが多かった。FIMはシュワンツが長年使用したゼッケン34を永久欠番とした。

WGPフル参戦を目前に控えたシュワンツにはやり残したことがあった。それがデイトナ200で勝つこと。4年目にしてシュワンツはそれを成し遂げた。新型GSX-Rは熟成不足で直線が伸びなかったが、インフィールド区間でタイムを削り取った。【1988年・デイトナ200】

シュワンツの相棒は、スズキのワークスマシン、RGV-Γ。トップスピードではライバルに一歩譲るが、旋回性の良さとシュワンツのブレーキングテクニックを武器とした。88年型(XR73)は87年型(XR72)の改良モデルで、7月のオーストリアGPからは前バンクのチャンバーが右2本出しとなる。【1988年・第1戦日本GP】

スタートで飛び出したシュワンツ、追いかけるガードナーのマッチレースは、最終周のスプーンカーブでガードナーがコースアウト(すぐに復帰)して決着。シュワンツはお得のガッツポーズで自身の勝利を祝った。86年頃からやり始めた儀式だが、世界にお披露目したのはこれが初めて。【1988年・第1戦日本GP】

ディフェンディング王者のガードナー、同郷の大先輩であるローソンを従えて表彰台の頂点に。シュワンツはその後、89年、91年、94年も日本GPを制した。【1988年・第1戦日本GP】

1965年以来となるアメリカGPの舞台はラグナセカ。バンピーで狭いコースはライダーから評判が悪かった。ポールはレイニー(#17)で、以下ローソン(#3)、マッケンジー(#5)が続き、シュワンツは4番手からのスタート。一つ順位を落とし、5位でチェッカーを受けた。【1988年・第2戦アメリカGP】

鈴鹿での衝撃的な勝利の後、母国に凱旋したシュワンツ。中央はパーソナルマネージャーも務めた父・ジムと母・シャーリーだろうか。【1988年・第2戦アメリカGP】

高速コースのため不利が予想されたRGV-Γだが、新型エキゾーストパイプやシリンダー、ピストンを投入した成果もあり、シュワンツはフロントローに並ぶ。が、決勝では頑張りすぎてシケインでコースアウトを何度か繰り返し、順位を上げることなく4位でフィニッシュ。【1988年・第7戦オーストリアGP】

グランプリの合間を縫って、シュワンツは4回目となる鈴鹿8耐に挑んだ。チームはヨシムラ・スズキでダグ・ポーレンとペアを組んだが、レイニーとマギーのヤマハに及ばず惜しくも2位に。結局シュワンツは鈴鹿8耐優勝には縁がなかった。【1988年・鈴鹿8耐】

目まぐるしく天気が変わる状況でスタートしたベルギーGP。シュワンツは転倒して膝を痛める羽目に。波乱のレースはガードナー(#1)が独走で締めくくった。【1988年・第9戦ベルギーGP】

AMA時代からのライバル関係は、WGPひも引き継がれた。89年の開幕戦、レイニーとの鍔迫り合いを制したシュワンツは鈴鹿で2年連続優勝。アメリカでレースをしていた頃は罵り合っていた2人は、真剣勝負を繰り返した後、無二の親友となった。【1989年・第1戦日本GP】

フルモデルチェンジしたRGV-Γはエンジンとシャシーのバランスが良く、89年のシュワンツはポールポジション9回、優勝6回という成績を残す。が、リタイア5回が響いてランキングは4位に終わった。【1989年・第1戦日本GP】

90年からはラッキーストライク・カラーへと模様替え。緒戦はドゥーハン、レイニー、コシンスキーと最終ラップまで激しくトップを争ったが、トップチェッカーはシュワンツの手に。【1990年・第1戦日本GP】

1949年生まれ。山梨県出身。東京写真専門学校(現東京ビジュアルアーツ)を卒業後、アシスタントを経て独立。1978年から鈴鹿8耐、83年からWGPの撮影を開始。また、マン島TTレースには30年近く通い続けたほか、デイトナ200マイルレースも81年に初めて撮影して以来、幾度も足を運んでいる。

情報提供元: MotorFan
記事名:「 「やるか、やられるか」が信条のフライングテキサン、ケビン・シュワンツ。【磯部孝夫カメラマンが紡ぐWGPの世界】