1月も早くも下旬となりました。正月(一月)のうち、元旦から人日の節供(1月7日)までの七日間は大正月と呼ばれていて、正月行事の中心です。これに対し、旧暦時代には新年初めての満月となる一月十五日(またはその前日十四日と翌日の十六日を含む三日間)は、古来小正月と呼ばれ、大正月に次ぐ重要な日とされました。小正月行事として全国的に分布するのが、とんど焼き、どんど焼き、さいと焼き、左義長などと称される火祭りです。広い野や畑、社寺の境内などに青竹で櫓を組み、飾り終えた正月飾りなどを燃やし、またその炎で餅や芋、団子、地域によってはみかんやスルメなどを持ち寄って火であぶって食べ、健康福徳を授かる予祝行事です。この火祭り祭祀にはある古い精霊が関わっていました。

天にも届かんばかりのどんど焼きの火柱。壮大な火祭りはなぜ全国に?


真冬の空を焦がすどんど焼き。その起源を解明する大調査が行われました

小正月行事は、小豆を加えた小豆粥(十五日粥)や、粟、キビ、稗(ひえ)、ゴマなどの雑穀と米を炊き込んだ「七種(ななくさ)粥」を食べて厄払いをする風習や、餅を団子状にして枝にたわわに飾る餅花が知られます。
また来訪神としてもっとも有名な秋田の「なまはげ」も、現在では大晦日に来訪行事が行われますが、かつては小正月の行事で、古来この日の重要性は大きく、全国にさまざまな行事が伝わります。
そして全国区的な小正月行事といえば、やはり「どんど焼き」でしょう。祭りの形態は地域により差異があり、関連行事も膨大なものですが、基本的には正月飾りである注連縄や松飾り、前年の守り札、書初めの習字などを、青竹で高く組んだ櫓にくべて焼き払い、周囲で歌い踊りつつ飲食して、実り豊かで幸せな一年であることを祈る予祝行事です。
その規模は地域によりさまざまですが、高さ5メートルを越す大きな櫓を組むどんど焼きも多く、その炎はまさに雲を焦がし、天に届かんばかりの壮大さで、印象的です。関西や中国地方でとんど焼き、北海道や東北、関東の大部分ではどんど焼き、鳥追い、鳥小屋、東海から中部、神奈川や埼玉などの西関東ではさいと焼き、道祖神祭、九州では鬼火焚き、ほんげんぎょう、そして北陸や京都などでは左義長などなど、さまざまな地域ごとの呼び名のバリエーション、傾向があります。
近年、大掛かりなどんど焼き行事の全国調査が行われました。
この火祭りの起源として長く定説とされてきた「平安王朝時代の貴族の行事『三毬杖(さぎちょう)』が民間に伝わり、どんど焼きになった」とする説は多くの点で無理・矛盾があり、どんど焼きの起源や由来は別に求めるべきであるとする提唱がなされています。

奈良県吉祥草寺の「茅原のトンド」。1300年の歴史があるといわれます


どんど焼きの起源は「三毬杖」。それってほんと?

「三毬杖」とは何でしょうか。古代ペルシャ帝国が起源の打毬(だきゅう)競技(騎馬もしくは徒歩で、チームを組んでスティックをもち、玉を打ち合って相手のゴールに打ち込むホッケーのような競技)が、中国に伝わり、やがて奈良時代ごろに日本の貴族たちにも伝わります。
多くの辞書や民俗事典、歳時記などでは、平安時代の宮中の正月行事の打毬で使用したスティック(毬杖)を三本組み合わせ、清涼殿などの庭で帝の宸翰(しんかん 天皇自筆の文書)などに火を点けて燃やし、蔵人や仕丁が囃し、楽人が楽器を奏で、舞人が舞うという「御吉書三毬杖(ごきっしょさんぎちょう)」の「さんぎちょう」が転化して、「左義長」として民間の小正月火祭り行事に変化した、とされています。
しかしこの説にはいくつもの誤謬や取り違え、誤解があります。
たとえば奈良県御所市茅原の吉祥草寺では、約1300年前の大宝元年(701)年に起源をもつ、修験道の開祖・役小角ゆかりの「茅原のトンド」が1月14日に行われています。つまり平安王朝時代よりも古い時代から小正月の火祭りは行われていたのです。
次に、毬杖(打毬競技)が正月の宮中行事だったのか、という問題です。
『万葉集』巻六には、奈良時代の神亀四(727)年、皇室の王子や貴族の子弟たちが宮廷の任務をサボって春日山に連れ立って出かけて「打毬の樂」を催したところ、にわかに雷雨にあい、恐れおののいて帰ってきて、その後罰として蟄居を命じられたというエピソードが記載され、この「打毬」が文献上の初出とされます。
続いて、勅撰漢詩集『経国集』(827年)の第八十九番・嵯峨天皇の漢詩「早春 打毬を観る」では、渤海使(渤海は当時中国北東部から朝鮮半島北部にかけて存在したツングース民族系国家)を迎えた正月十六日の踏歌節会(とうかのせちえ)の余興として、打毬ゲームを見物したさまが描出されています。
ところがその後、『日本紀略』の承和元(834)年の五月八日に、武徳殿での種種馬芸、射礼(じゃらい)などの武芸祭礼の一環として打毬が行われた記述を皮切りに、その後は『西宮記』の天暦九(955)年の五月六日の宮廷五月行事のアトラクションとして行われた記載など、正月ではなく五月行事として行われているのです。毬杖(打毬)行事は、平安時代前期に既に正月の行事ではなくなっているのです。
そもそも、嵯峨天皇時代の打毬行事にしても十六日に行われているので、小正月に毬杖を焚き上げるのは無理ですよね。打毬競技は、貴族の儀礼ではなく、京都市中の町民、特に子供たちの正月遊びとして平安期に盛んだったことがわかっています。

打毬(毬杖)競技は、今も芸道として行われています


なぜ三本の毬杖を焚き上げる?その奇妙な行いにこそどんど焼きの秘密が

毬杖の焚き上げが「さぎちゃう」として登場するのは、鎌倉時代末期から南北朝時代に著された『徒然草』(吉田兼好)です。
さぎちゃうは、正月に打ちたる毬杖(ぎぢゃう)を、真言院より神泉苑へ出して焼きあぐるなり。「法成就の池にこそ」と囃すは、神泉苑の池をいふなり。(第百八十段)
足利尊氏の執事・高師直(こうのもろなお)や鎌倉幕府滅亡直前に十日間だけ執権の地位についた北条貞顕など鎌倉武士と親交があった吉田兼好。
鎌倉末期から室町時代にかけて、武士たちの間で打毬が武芸の一環のレジャーとして正月などの楽しみとなり、また民間のどんど焼き(さぎちょう)を見習って、正月飾りや、遊戯や儀礼に使用したものをまとめて焼いたのかもしれません。その後、主に江戸時代ごろから、宮中での「御吉書三毬杖」が行われるようになったのです。
ですから、三毬杖が左義長(とんど焼き)になったのではなく、とんど焼きの風習がもとからあり、後に三毬杖がその影響を受けてはじまった、というほうが正しいのです。
「だけど左義長は三毬杖という名前から影響を受けてできた名前だろう」と言われるかもしれません。実はそこに問題の核心があるように思われます。
なぜ宮中の三毬杖では、毬杖(打毬のスティック)を三本組んで焚きあげるのでしょうか。その奇妙な風習について考察している資料はほとんど見られません。縁起ものの正月飾りや祭祀の道具、天皇の習字などを焼くことは理屈としてわかります。もし正月儀礼に使った武具・道具だからというのなら、「射礼」に使った弓矢こそ焚き上げにふさわしいようにも思います。
三本の毬杖は、何かに見立てられて燃やされたのではないでしょうか。だとするとそれは何か。そこにこそ小正月火祭りの、今では気づかれにくくなった古い精霊がかかわる深い意味があるのです。
後編でその謎解きを試みたいと思います。
(参考・参照)
新訂 徒然草  吉田兼好 岩波書店
遊戯から芸道へ:日本中世における芸能の変容 村戸弥生 玉川大学出版部
日本と世界の小正月行事「どんど焼き」調査データ一覧表
野井区のどんど焼き
茅原のトンド

焼け落ちて燃えくすぶる火で持ち寄った食べ物を焼くのも楽しみ

徳島県美馬の日本一の規模のどんど焼き。すさまじい迫力です

情報提供元: tenki.jpサプリ
記事名:「 「三本の杖」は何を意味する?小正月行事「どんど焼き」の深層とは《前編》