現在、ウィックさんは83歳。過去20年にわたり、アドルフ・ヒトラーの残虐行為から、いかに上海がユダヤ人を救ったかを語り続けている。「(上海は)ユダヤ人2万人を救った。もしあの助けがなければ、こうして今、話をすることはできなかった」
オーストリア・ウィーン生まれのウィックさんは、イタリア・トリエステの港から、両親と共に上海へと避難した。
1月27日は「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」。アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所が1945年に解放された日だ。
人類史上最悪のジェノサイド(大量虐殺)により、ユダヤ人600万人が殺された。だがウィックさんと6人の家族は、欧州から上海に逃げることができた。上海は当時、入国ビザを必要としない数少ない渡航先の一つだったのだ。ユダヤ人でも、このことを知らない人は多いとウィックさんは話す。
迫害から逃れてきたユダヤ人は、既に19世紀に渡ってきていた少数だが裕福な同胞から援助を受け、自分たちのコミュニティーを築くことができた。
■「特別な関係」
2007年、上海市虹口区に政府運営の「上海ユダヤ難民記念館」が開館した。
記念館の最も重要な展示は、1930年代から1940年代にかけて同市に滞在していたユダヤ人数千人の名前が記された壁だ。その他にも、旧日本軍による上海占領時代に、自らも苦しい立場にあった中国人とユダヤ人とがお互いに助け合っていたことを物語る内容の展示が多い。
施設ではまた、ユダヤ人が中国人からの偏見に直面していなかったというメッセージも見て取れる。これについては、ウィックさんからの裏付けがある。
その一方でウィックさんは、ユダヤ人の避難を許したのは「主に日本人だった」ことを強調する。ナチス・ドイツと同盟を結んでいたものの、日本人は反ユダヤ主義ではなかったと話した。
同記念館の陳倹館長は、上海とユダヤ人は、避難の前から「特別な関係」にあり、それが今も続いていると話す。「あれから数十年が経過し、歴史中の出来事の一つとなったが、避難民の一部とその子孫…そして私たちは非常に深い友情を維持しているのです」【翻訳編集AFPBBNews】
〔AFP=時事〕(2021/01/28-13:24)
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