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「夜になるとせきが出て、布団にうつぶせになった尚子の背中をさすってあげるしかなかった」。幼稚園に通っていた尚子さんが発症した当時、1963年に操業が始まった第2コンビナートから約2キロの場所に居住。発症後の尚子さんは「食事を受け付けなくなり、痩せていった」という。
医師の勧めで72年5月に市外に転居すると、尚子さんの症状は改善した。同年7月24日、津地裁四日市支部が言い渡した判決の報道を、谷田さんは尚子さんと一緒にテレビで見た。尚子さんは訴訟に参加していなかったが「原告が勝ったことを知り、喜んだ」という。同年9月、小学4年だった尚子さんはぜんそくの発作で亡くなった。
訴訟と並行し、企業や行政はさまざまな公害防止対策を講じた。ただ、谷田さんは「それでも操業を続けられるんなら、なんでもっと早くできんかったんや」と悔しがる。
判決から半世紀となり、記憶の風化が進む中、谷田さんは約10年前から語り部の活動を始めた。「公害で死んだ子がおり、経済成長のために人を犠牲にしてはいけないという教訓を伝えなければならない」という思いが、原動力となっている。
今月1日、四日市市で開かれた谷田さんの講演を聞いた市立内部小学校5年の男子児童は「自分よりも小さい子がぜんそくで苦しんでいたのは知らなかった」と感想を話した。谷田さんは「私の話が誰かの記憶にちょっとでも残り続けてくれたらうれしい」と話している。 (了)
【時事通信社】
〔写真説明〕昔のアルバムを手にする谷田輝子さん=8日、三重県菰野町
〔写真説明〕四日市公害について小学生に講演する谷田輝子さん(奥)=1日、三重県四日市市