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量産初の並列4気筒車となった、ホンダCB750フォアを知る。①-1|旧車探訪記


第二次大戦後の1948年に創業したにも関わらず、1960年代初頭に2輪車生産台数世界一の称号を獲得し、1966年には世界グランプリ全クラス制覇を成し遂げたホンダ。そんな同社が、欧米の古豪メーカーに真っ向勝負を挑んだ初の大排気量車が、1968年の東京モーターショーで公開され、翌1969年から発売が始まったCB750フォアである。量産初の並列4気筒エンジンを導入したこのモデルの大成功で、ホンダは名実共に世界ナンバー1メーカーの地位を確立したのだ。




REPORT●中村友彦(NAKAMURA Tomohiko)


PHOTO●富樫秀明(TOGASHI Hideaki)

 CB750フォアというバイクの存在意義について、僕が真面目に考えるようになったきっかけは、2000年にイギリスのジャーナリストが主催した、“モーターサイクル・オブ・ミレニアム”である。ミレニアムという言葉の是非はさておき、世界21カ国の2輪雑誌の編集長が参加したこの企画の趣旨は、1885年のダイムラー・アインスパーに端を発する、ありとあらゆるモーターサイクルの中でベストを決定すること。そして栄えあるナンバー1の座を獲得したのが、CB750フォアだったのだ。




 もっとも、1970年生まれで、CB750フォアの現役時代を正確に把握していない僕にとって、その事実はいまひとつピンと来なかった。カワサキZ1やトライアンフT120ボンネビルなどとデッドヒートを繰り広げて、という展開なら理解できなくはない。でもこの企画におけるCB750フォアの人気は絶大で、2位のヴィンセント・ブラックシャドウが6ポイントだったのに対して、CB750フォアは32ポイントを獲得していたのである。

撮影車は1972年型K2。外観から判別できるK0/K1との相違点は、ウインカーの左右幅が広がり、サイドリフレクターとテールランプが大型化され、シート後部にグラブバーが装着されたこと。ただし細部をじっくり観察すると、吸排気系やシート、リアショック、メーター、ライトステーなども変更を受けている。発売当時の価格はK0/K1と同じ38万5000円。

 自国のバイクの栄誉に異論を述べるのは気が引けるけれど、CB750フォアはそこまで圧倒的な存在だったのだろうか? そう感じた僕は、以後はことあるごとにCB750フォアの立ち位置を考えるようになり、数年後にモーターサイクル・オブ・ミレニアムの結果が、ようやく腑に落ちることとなった。革新的な機構を導入したバイクや、後世に多大な影響を与えたバイクは、世の中に数多く存在するけれど、過去に前例がないモデルを世に送り出し、デビューと同時に2輪業界の勢力図を塗り替え、欧米の老舗メーカーを困惑させた車両は、CB750フォア以外には存在しないのだから。極端なこと言うならモーターサイクルの歴史は、CB750フォアの登場以前と以降に分類できると思う。




 CB750フォアの最も注目するべき要素と言ったら、それはもちろん、量産初の並列4気筒エンジンだろう。と言うのも、当時の大排気量車の主役は2気筒で、並列4気筒はGPレーサーと一部の超高額車のみに許されたメカニズムだったのである。そんな状況下で、既存の2気筒と同等の価格の並列4気筒車が登場したら、誰だってビックリすると同時に乗ってみたい!と思うんじゃないだろうか。事実、そういうライダーが世界中にたくさんいたからこそ、CB750フォアは10年間で約50万台が売れたのだ。なおエンジンほど絶大なインパクトはなかったものの、フロントに配された油圧式ディスクブレーキも、量産車としては世界初の機構だった。

強烈なインパクトを放つ4本出しマフラーは、世界GPに参戦したRCシリーズの技術の転用……と言えなくはないけれど、当時のバイクのマフラーは1気筒1本が普通だったのだ。なおスズキが1972年から発売を開始したGT750/550/380は、CB750フォアへの対抗策?として、エンジンが2スト並列3気筒だったにも関わらず、4本出しマフラーを採用していた。

 もっとも当時のホンダは、既存の大排気量車の常識から外れたCB750フォアが、市場に受け入れられるとは思っていなかったようだ。だから年間予定生産台数をかなり控えめな1500台に設定したのだが、実際に市販が始まると、世界中から注文が殺到。1500という数値は、即座に年産→月産に変更され、全盛期の月産台数は3000に達した。なおシリーズ全体を通して、最も生産台数が多かったのは1970~71年に生産されたK1の7万70000台で、二番手は1972~73年型K2の6万3500台。製造設備の準備に時間がかかったためだろうか、初代K0は6万台で、その中の極初期に作られた約7400台は、砂型鋳造のクランクケースを採用していた。




 前述したように、1960年代の大排気量車の主役は2気筒だった。そんな中でどうしてホンダが、並列4気筒車を世に送り出したかと言うと……。直接的な原因は、1965年に発売したCB450の不振だろう。当時のホンダにとって、最大排気量車にして世界戦略車のCB450は、日本では好セールスを記録したものの、欧米での人気はいまひとつ。結果的にCB450で味わった挫折が、CB750フォアが誕生する原動力になったのである。

初代K0の特徴は、左右への張り出しがかなり大きいサイドカバー/オイルタンク、ワイヤ4本引きのキャブレター、端部の折り返しがないフロントフェンダー、シルバーのフロントブレーキキャリパー、後端が跳ね上がったシートなど。砂型鋳造のクランクケースとフラットなオイルフィルターカバーは、K0の後期型で金型鋳造/フィン付きに変更された。

 1959年から世界GP(現代のMotoGP)への挑戦を開始したホンダは、1966年にサイドカーを除く全クラス制覇を実現している。当時のホンダ製ファクトリーレーサーの特徴は、“時計のように精密”と称された超高回転指向の4スト多気筒エンジンで、’66年のRCシリーズは、50cc:並列2気筒、125cc:並列5気筒、250/350cc:並列6気筒、500cc:並列4気筒を搭載していた。




 言ってみれば1960年代中盤のホンダは、4スト多気筒のノウハウを手中にしていたのだ。にも関わらず、CB450が並列2気筒を採用した理由は、あえて少ない排気量で、欧米の500~650ccの2気筒勢を打倒するためで、最高出力:43ps、最高速:180km/hというCB450の公表値は、同時代の欧米の旗艦とほぼ互角だった。ただし、低速トルクの細さとそれに伴うギアチェンジの多さが問題視され、海外での販売は苦戦。となれば、次は並列2気筒の排気量拡大版という発想が浮かびそうなものだけれど、当時のホンダに2気筒に対する執着心はなかったし、2気筒の大排気量化に伴う振動の増大には疑問を持っていた。こういった経緯を経て、新世代の旗艦への導入が決定したのが、ホンダならではの技術力をきっちりアピールしながら、既存の2気筒勢とは一線を画するスムーズさとパワフルさが実現できる、並列4気筒だったのだ。

ホンダの創業者である本田宗一郎は、CB750フォアのプロトタイプを初めて見たとき、“こんなデカいオートバイに、誰が乗るんだ?”と言ったらしい。でも1990年代以降に登場したビッグネイキッドの基準で考えるなら、乾燥重量:220kg/軸間距離:1455mmのCB750フォアは、そんなにデカくはない。ちなみに並列4気筒CBシリーズで最も巨漢だった1998~2002年型CB1300SFは、246kg/1545mm。

 CB750フォアが世界中で爆発的なヒットモデルになったことは、日本人にとっては喜ばしいことである。でも古くから大排気量車の世界を支配して来た欧米のメーカーにしてみれば、CB750フォアはやっかいな存在だったに違いない。もっともBMWやモトグッツィ、ドゥカティ、ハーレー・ダビッドソンなどは、1970年前後に独自性を強調したニューモデルを発売して、何とかCB750フォアに対抗したものの、1940~60年代に我が世の春を謳歌し、大排気量車の世界で絶大な人気を誇っていたイギリスのBSA/トライアンフとノートンは、CB750フォアの人気と反比例するかのように、1970年代に入ると販売台数が激減。しかもCB750フォアに続く形で、1972年には2スト並列3気筒のスズキGT750とカワサキ750SS、1973年には4スト並列4気筒のカワサキZ1(900cc)が登場したのだから、当時の欧米メーカーはたまったものではなかっただろう。いずれにしてもCB750フォアの登場を契機として、以後のビッグバイク市場は日本製多気筒車が覇権を握ることになったのである。

NAKAMURA Tomohiko:これまでに10台以上のCB750フォアを試乗している、2輪雑誌業界23年目のフリーランス。若い頃から旧車は大好きで、現在は1974年型モトグッツィV850GTと1976年型ノートンコマンド850を愛用。かつては1974年型トライアンフT140ボンネビルや、1979年型カワサキZ1000MkⅡなどを所有していた。

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