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2月18日、爆発する天才を産んだ母、岡本かの子の命日にちなんで


万人がひと目で理解できる、とは言い難い作品の奥に込められた心を「芸術は爆発だ!」と言い放ち、日本中の耳目を集めた岡本太郎の言葉は、1970(昭和45)年に行われた日本万国博覧会のシンボル「太陽の塔」とともに一世を風靡しました。岡本かの子は天才芸術家・岡本太郎の母、と言った方が現在はわかりやすいかもしれません。自身歌人であり作家としても活躍し、夫は朝日新聞で漫画記者として名を馳せた岡本一平でした。

2月18日は50歳を目前に亡くなった岡本かの子の命日です。女として母として命を燃やし続けた生きざまを振り返ってみたいと思います。

渋谷駅「明日の神話」岡本太郎

渋谷駅「明日の神話」岡本太郎


短歌に邁進した少女時代、湧き上がる恋心!かの子が受けた教育とは?

岡本かの子は1889(明治22)年3月1日赤坂区青山南町の大貫家別邸で生まれ、現在の川崎市高津区にあった本邸で育ちました。実家は明治の世になり衰退に向かったものの、もとは幕府の御用商人で多くの蔵を構える大地主。御殿女中を務めた養育母から音曲、舞踊をはじめ「万葉集」「古今和歌集」「源氏物語」などを仕込まれ、漢学塾へも通います。芸事の好きな母と文学青年の兄の影響を受けて、かの子はやがて短歌の世界へと入っていきます。13歳で跡見女学校に入学する前から同人誌に投稿するほど短歌に打ち込みました。1906(明治39)年かの子17歳「明星」に掲載された歌です。

「やは肌は白蝋(はくろう)なれば燃えにける君が御息(みいき)の火のうつり来て」

「ただふたりただひと時をただ黙(もだ)しむかひてありて燃えか死ぬらむ」

ほとばしりでる情感を表現することばは、幼い頃から読み習ってきた雅びな短歌の世界を彷彿とさせます。ほかにも新しい詩歌や小説、琴の音曲とかの子の成長は、次から次へと才能が引き出されるかのように文芸の世界に広がって行ったのです。

かの子が育った多摩川べり

かの子が育った多摩川べり


破恋、一平との結婚、夫の放蕩、愛人との同居、かの子の生きざまとは!

18歳で女学校を卒業後、19~20歳のときの恋は駆け落ちの末、周囲に裂かれるという悲しい結末でした。21歳で岡本一平と結婚、翌年に長男・太郎が生まれます。この頃、実家の大貫家は破産に瀕し、定職を持たない一平との生活にかの子は困窮します。ようやく一平が朝日新聞社に入社して連載漫画が好評となり収入が増えると、一平は家にお金を入れずに放蕩にはしり、結婚生活は危機に直面します。太郎を抱えたかの子は苦悩の中で恋をするのです。文学青年・堀切茂雄との恋愛で、かの子は恋人と夫と3人で同居するという世間ではあまり考えられない形を選択します。その間、長女、次男が生まれますが、共に幼くして亡くなっています。やがて茂雄との関係も終わりをむかえますが、かの子の心情を知る手がかりは短歌にありました。

「ともすればかろきねたみのきざし来る日かなかなしくものなど縫はん」

(『かろきねたみ』1912(大正元)年)

「我儘の妻にもなれてかにかくに君三十路男(みそじを)となりたまひけり」

(『愛のなやみ』1918(大正7)年)

かの子の精神の衰弱に、さすがの一平もかの子のもとに戻ります。ふたりは荒廃した精神の救いを求めて教会を訪ね、聖書の講義を受けます。これをきっかけにかの子は一平との夫婦関係を生涯にわたって断つことを誓い、実行したということです。かの子はキリスト教に光を見いだすことはできず、親鸞の「歎異抄」に出会い傾倒します。仏教研究をかの子は生涯のテーマとしていきました。

青山の自宅前 左より太郎、一平、かの子 岡本太郎美術館

青山の自宅前 左より太郎、一平、かの子 岡本太郎美術館


夫・一平と息子・太郎、そしてかの子、芸術に生きた3人が残した手紙

1939年(昭和14)2月18日、かの子は亡くなります。遠くパリにいた太郎は、父からの電報で知らされた母の死に、悲しみのあまり数日間起きあがることができなかったということです。

1941(昭和16)年12月、太郎は太平洋戦争への出征を前に『母の手紙』を刊行します。これは、1929(昭和4)年12月に両親に連れられてヨーロッパを訪れ、そのままパリに留まり勉学に励む中、両親と交わした手紙をまとめたものです。この中に記されている、かの子の手紙には、息子への母としての思いだけでなく、かの子自身がヨーロッパで触れた芸術への感動、さらに知識欲や創作欲など芸術家としての熱い心が記されており、小説や歌ではないかの子自身の生の声が聞こえてきます。

太郎はこの戦争で生還はできないかもしれないとの思いから、母の手紙をまとめることに心をそそいだと記しています。空襲ですべてが焼けてしまった今、この本によってかの子の声が残されたといえましょう。

「太郎がどんなに世界のはてに居ても同じこの世に生きて居ることを喜ぼう。ときどき逢えさえすれば甘い家庭の幸福なんか望むまい…」

恋多きかの子ですが、母として生きる姿勢は純粋でまっすぐ、潔さを感じます。

一方で母の寂しさを素直にこんな歌に託しています。

「うつし世に人の母なるわれにして手に觸(さや)る子の無きが悲しき」

1932(昭和7)年、一平とかの子の2年にわたるヨーロッパ滞在を終えて帰国するとき、パリ北駅で見送る太郎に詠んだ歌です。そしてこれが、かの子と太郎の今生の別れになりました。

女として母として存分に生き、溢れる思いを歌と小説に残したかの子の人生に、日本の伝統文化の豊かさの上に、明治の新しいエネルギーが注がれて生まれ出た逞しさを感ぜずにはいられません。

図書館に行っても、もはや本棚に並んでいる中にかの子の作品を見つけることは稀になりました。そんなときは、書庫の奥からぜひ取り出してもらってください。古いけれど新しい世界が開かれること請け合いです。

参考:

『岡本かの子』新潮日本文学アルバム、新潮社

岡本太郎『母の手紙』チクマ秀版社

古屋照子『岡本かの子-華やぐいのち』沖積舎

川崎市、岡本太郎美術館

「母の塔」岡本太郎ミュージアム

「母の塔」岡本太郎ミュージアム

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