筍の季節です。筍といえば筍ごはんに若竹煮と、3月頃から出まわる春の味覚となっています。今日は立夏の末候「竹笋生(たけのこしょうず)」ですか、筍が店頭に並ぶのも終わりに近づいているようです。季節感と暦にズレはありますが、青々とした竹の色が輝くのは5月の光が似合うような気がします。それにしても、もし、まだ筍を口にしていらっしゃらない方がいらしたら、なくならないうちに新鮮な軟らかい筍を早めに召し上がってくださいね。


みるみる伸びる竹の子のようすからこんな喩えがあります

「筍の親優り」
筍は生長が早く親を追い越せ、追い越せとばかりに親竹と同じ高さになることから子供が親より優れていることを喩えていいます。親としては嬉しく淋しく。子としては晴れやかな瞬間ではないでしょうか。
「筍生活」
筍の皮を一枚一枚剥ぐように、身の回りの衣類や家財道具を少しずつ売って生活費に充てようやく食べていく暮らしをいいますが、今の時代はあまり聞かなくなりましたね。それにしても巧い表現だと感心してしまいます。筍の皮はかつてはおにぎりを包んで携帯したり、食品を包んだり、また細く裂いて籠を編んだりと日常によく使われていました。ほんとうに生活に役に立っていたのだな、とわかります。
「雨後の筍」
雨がやんだ後に筍が続々と生えてくることから、似たような物事が次々と現れ出てくることをいいます。爆発的に売れた商品はあっという間に真似されて多くの似たものが発売されますが、やはり残るのは力のあるものだけのような気がします。


筍は天に向かって伸びるだけではなく横にも伸びます

竹は地下茎で土の中を横に伸びていき思わぬところから顔をだします。
良寛さんが床下から伸びてきた竹の子のために床板をはずし、さらに屋根の麦わらを抜いて穴をあけて竹の子が伸びていけるようにしてあげたという話は、良寛さんの優しさを伝える有名なエピソードです。
良寛さんのように優しい人は言い伝えになるくらい珍しいこと。凡人はそうはいきませんよね。
それでは垣根の向こう、となりの家の竹藪からこちらの家にやって来て生えた筍はさて、どちらの家の筍となるのでしょうか? 「根っこがこちらだから私の筍だ」「イヤ、生えてきたのはわが家だから私の筍だ」と互いが主張を譲らないお隣同士の悶着を描いたのが狂言『竹子争』です。間に立った仲介役の人もどちらの言い分も正しいような気がしてとても困ってしまいます。さてこういう場合はどうしたらいいのでしょうね。
縦に割れば真っ直ぐに割れることから「人の性質のさっぱりとして、わだかまりがないこと」をいいますが、筍の美味しさを思うと凡人はなかなかそう上手くは割り切れないようです。
緑色も鮮やかに真っ直ぐに伸びていく竹は爽やかな潔さを感じます。初夏の風に吹かれながらしなやかに真っ直ぐな心をめざしたいものです。