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明智光秀の坂本城、大規模な石垣と堀跡確認 絵図もない幻の城


 大津市は7日、戦国武将・明智光秀が1571年に築いた坂本城の「三の丸」とみられる大規模な石垣と堀の跡を確認したと発表した。坂本城は本能寺の変(82年)後に焼失、再建されるも数年で廃城に。大半が大津城に転用されたため、地上に痕跡がなく、絵図もないことから「幻の城」と呼ばれてきた。今回の調査で、城を構成する礎石建物や瓦もセットで見つかり、後の安土城など織田・豊臣期の城郭の“元祖”だったことが裏付けられた。

「三の丸」築城当初の遺構か

 坂本城は琵琶湖に突き出た水城で、大小二つの天守を持つ華麗な姿だったとされる。比叡山の焼き打ち後、織田信長が監視強化のため、光秀に命じて造らせた。地元では、琵琶湖の水位が下がると石垣がのぞくことが知られていたが、1979年の発掘調査で湖岸から上級家臣団の屋敷とみられる礎石建物跡などが見つかり、本丸跡と推定された。

 今回は宅地開発に伴い、同市下阪本3の湖岸から約300メートルの地点を約900平方メートル調査した。地表から2メートルほど掘り下げたところ、高さ約1メートルの石垣を約30メートルにわたって確認。石垣に沿って築かれた外堀とみられる堀(幅8メートル、深さ約1メートル)も検出した。周辺で出土した遺物の年代から16世紀後半と推定、築城当初の遺構の可能性が高いという。

 堀には水がたたえられていたとみられ、オール状の木製品も出土した。石垣の内側からは、礎石建物や井戸、赤と黒の瓦が見つかり、下級家臣団の屋敷地が展開していたとみられる。

「奇跡的検出、復元の基軸に」

 滋賀県立大の中井均名誉教授(城郭研究)は「坂本城の三の丸の石垣と見てよいだろう。これほどの石垣の検出は奇跡的で、坂本城復元の基軸になる」と評価。市文化財保護課の岡田有矢技師は「堀の幅は10~12メートルに復元でき、琵琶湖からの水運に使われたほか、比叡山方面からの外敵侵入を防ぐ目的もあったと考えられる」と話す。

 現地説明会は10、11日に計7回実施。各回定員150人、要整理券。問い合わせは同課(077・528・2638)。【飯塚りりん】

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