starthome-logo 無料ゲーム
starthome-logo

前田利家の正室まつの菩提寺が全壊、総持寺祖院も被害 能登半島地震


 能登半島地震で孤立状態になっている石川県輪島市門前町五十洲(いぎす)在住の医療ジャーナリスト、東栄一さん(73)が、発生直後の混乱やその後の避難生活、片道約10キロの山道を歩いて、妻の安否確認をしたことなどをまとめ、現場の写真とともに毎日新聞に寄稿した。戦国時代の加賀藩主、前田利家の正室まつの菩提(ぼだい)寺「芳春院」が全壊した写真もある。

医療ジャーナリストの東栄一さん寄稿

 東さんは、経済誌の記者を経て独立。「医療不信 この国は病んでいる」(日本能率協会マネジメントセンター)、「ドキュメントホスピス24時 輝け、限りある命」(廣済堂出版)など、病院や医薬品、介護などをテーマにした数多くの著書がある。7年前に生まれ故郷の輪島に戻り、観光客が多く訪れる総持寺祖院(同市門前町)の御朱印受付を担当。地震発生時も初詣客らに御朱印を書いていたという。

観光客ががれきの下敷きに

 ガタガタと建物が揺れ、からだが上下左右に引っ張られる。天井や壁が崩れ落ちる。揺れが少し収まったとき、左腕の打撲に気づき、頭上にかぶさったガラス戸2枚をはねのけた。仕事場で一緒に御朱印を書いている同僚の女性は床に座って泣いている。

 「出るぞ」

 声をかけ外に出た。観光客や初詣客が通る瓦ぶきの回廊が30メートルほど崩れ落ち、逃げ遅れ、がれきの下敷きになった観光客の女性と、傍らで泣き崩れる少女の姿が痛々しい。がれきの下から引き出すまで30分。「救急車、救急車」と来るはずもない救急車を呼ぶ叫び声がむなしい。あたりはすでに薄暗くなりかけていた。道路は亀裂と地割れがおびただしい。元日の午後4時過ぎ、惨劇はこうして始まった。

 大みそかの午後11時、寺院内に人が集まってきた。コロナ禍が過ぎ4年ぶりに除夜の鐘が一般に開放されたためだ。福餅まきが終わったのが元日の午前1時半。誰もこの後の惨劇を予想しなかっただろう。

 1日午後5時過ぎ、余震の続くなか、近くの町の公民館に避難した。途中、総持寺祖院の建物の被害に加え、前田利家の正室まつの菩提寺「芳春院」がつぶれているのを目の当たりにした。

通信遮断で安否確認できず

 公民館には着の身着のままの姿で、地元住民が集まってくる。発電機で明かりをとり、灯油ストーブで暖をとる。すぐに毛布が配られる。17年前(能登半島地震)の教訓が生きている。輪島市内の朝市付近で火災が発生し、延焼中との情報が入る。押し黙っている人が多い。

 通信網が遮断されたことがより不安をつのらせる。安否確認ができないのだ。筆者は妻の安否と家屋の様子が気になり、避難所の1夜目に「明日、車がダメなら歩きで行こう」と決意した。

 2日午前、輪島市門前総合支所の災害対策室で情報収集したうえで、約10キロ離れた海に近い自宅まで、おさよトンネル(1400メートル)を経由した徒歩での峠越えを申し出た。「安全が保証できないから無理」。責任者は予想通りの答えだった。

 同支所には宮下正博・石川県議(74)もいた。同級生だ。視線を交わしたとき、頑張れと言っているように見えた。「妻の安否と家の状態を見たい。妻が家具の下敷きかもしれない」と談判した。沈黙のあと「わかりました。安全は自己責任で」。そう言ってヘルメットを渡された。

 2日午前9時、同じ地区出身の女性と2人で車に乗って出発した。二つのルートとも亀裂、段差、地割れがひどく車は断念した。午後2時に徒歩での峠越えを覚悟して再出発した。途中、歩きで町まできた人と合流して3人で山越えを開始。案の定、亀裂にタイヤがはまった状態の車が計3台乗り捨ててあった。トンネル内も6~7カ所壁面や天井が崩壊している。大きな余震のないことを祈りながら歩く。

妻と抱き合い

 トンネルを抜けると地割れもひどくない。途中、足ワナにかかった巨大なイノシシが土手の下でもがいている。刺激しないように進み、集会所(大津波警報のため高台の臨時の避難所)に着くと、何人かの人が飛び出してきた。

 その中に妻もいた。人目もはばからず抱き合った。地区責任者の区長と会って町の被害状況と道中までの経緯を話した。区長はすぐに動き、明朝再び歩きで町に帰る筆者に、集落全体の区長会による市への要望書を託された。

 荒れ果てた自宅に眠るだけのスペースをつくり一夜を過ごした。3日午前9時、町へと出発。加齢とふだん歩きなれないのが災いし、足がパンパンになる。町の避難所に行く途中、岐阜と書かれた自衛隊の車列、小松、加賀、長崎の文字が目に入ると、胸に熱いものが込み上げる。「ありがとう」とつぶやいたとき、涙がこぼれた。

 輪島市門前総合支所の災害対策室で区長会の要望書(飲料水と食糧の緊急要請)を託して避難所に行くと、同じフロアに避難した人同士の助け合いの光景が見られた。午後6時半、NHKの取材で窮状を訴えた。家族の安否を事業所に報告し、一晩過ごして翌4日に再び妻のいる家まで歩いた。

ヘリの音は「命の音」

 町の避難所を出てすぐ、警察官と出会い「歩きで七浦(しつら)地区まで行く」と告げると、「情報がほしい」と言われ、すぐ近くの交番に同行した。この町で警察官は2人しかいないらしい。交番にはストーブもなく警察官も筆者も寒さで震えていた。「無人の駐在所に行ってほしい」「状況を本署に伝えてほしい」と依頼されたが駐在所も例外なく被災していた。

 5日から自衛隊のヘリが飛来し、次いで悪路に強い四輪駆動車が救援物資を運んでくれている。ヘリの音が命の音に聞こえる。感謝の気持ちでいっぱいだ。

 10日に通信網が整備され、地震から12日後、重機4台が土のうづくりに入り、ダンプカーが間断なく行き来している。通りかかると、工事管理者らしき人が「自衛隊や消防、警察だけでなく、私たち地元の建設業者も働いていることを見てください」と話した。

 「寒い中ありがとうございます」。頭を下げると、心が緩やかに確かに熱くなるのを覚えた。

総持寺祖院

 約700年前に創建された曹洞宗の寺院。明治時代の火災で伽藍(がらん)の多くを焼失し、布教の中心を横浜・鶴見の総持寺に移した。震度6強を記録した2007年の能登半島地震で被災し、21年に耐震保存復興修理工事が終わったばかりだった。今回も国の登録有形文化財建造物の多くが被害を受けたとみられる。

    Loading...
    アクセスランキング
    starthome_osusumegame_banner
    Starthome

    StartHomeカテゴリー

    Copyright 2024
    ©KINGSOFT JAPAN INC. ALL RIGHTS RESERVED.