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上野の「合格大仏」 顔だけになった理由と、その姿が伝えること


 1923年の関東大震災の発生時、約50万人が避難したという上野公園(台東区)。公園内の小高い丘を登ると、正面に仏塔があり、その左手に顔だけの大仏が見えてくる。「なんで顔だけなんだろう」と不思議そうに見つめる観光客の姿も。この「上野大仏」は地震や火事で3度被災し、関東大震災でも大きく被害を受けた。現在、顔だけがまつられている理由とは――。

 大仏が登場したのは1631年、越後村上藩主の堀直寄によって造られた。高さは約4・8メートルで、粘土の表面をしっくいで塗り固められていた。

 初めの災難は47年、正保相模の地震で大仏が破損し、55年以降に高さ約6・6メートルの青銅製の大仏が造られた。その後、寛永寺の住職だった公弁法親王が大仏殿を建造したが、1841年に大仏殿から火災が発生し、高熱で大仏の頭部が溶け落ちてしまった。大仏殿と大仏を修復後の55年、安政の大地震で再び頭が落ちたという。その後、再建されたものの、公園の設置により大仏殿のみ取り壊された。

 野外にたたずむ上野大仏が、最後の災難を被ったのが関東大震災だった。大規模な地震が南関東を襲い、大仏の頭がまたも落下。解体された頭と胴体は寛永寺に保管され、再建される日を待ち望んでいた。

 だが、第二次世界大戦中、軍事品製造のため金属類回収令が出された。大仏も例外ではなく供出を余儀なくされたが、顔の部分だけは持って行かれずに済んだという。寛永寺によると「記録が残っていないので分からないが、再建に向けて顔だけは隠したのかもしれない」という。

 顔はその後しばらく寛永寺に大事に保管され、関東大震災から50年忌にあたり、元々の大仏があった付近にまつられた。

 そして今、大仏は思いがけない存在になっているという。頭を支える体がないことから、「これ以上落ちない」と約20年前から受験生の間で広まり、合格を祈る参拝客が増加した。「合格大仏」として大仏や桜の描かれた絵馬が奉納されている。

 寛永寺執事の石川亮岳さん(44)は「天災と人災により姿を変えた大仏さまが、顔だけという新しい姿で合格祈願の象徴となっていることに、人々のたくましさと仏さまの懐の深さを感じる」と話す。

 今では合格大仏として知られている上野大仏。顔だけになった歴史をひもとくと、震災の怖さと戦争の悲惨さ、そして人間の強さを教えてくれていた。【小林遥】

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