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「炭鉱にないものは描く気しない」作品の源泉は筑豊 野見山暁治さん


 戦後の日本洋画界を代表する存在だった野見山暁治さんが逝った。作品の源泉は、生まれ育った福岡・筑豊の炭鉱。画家にとって福岡はたんなる郷里にとどまらず、成功を収めた後も活動の拠点であり続けた。

 夏場を中心に毎年3カ月ほど、唐津湾を望む福岡県糸島市のアトリエ兼自宅で過ごすのが常だった。アトリエにいる限り、描けようが描けまいが、毎日欠かさずカンバスに向かった。

 2023年1月、取材で訪ねると、描きかけの油彩画が3点あった。この時、既に102歳。「僕は自分を職業画家と思っていない。昔と違って、最近は描くのが楽しい」と語ってくれた。福岡は愛してやまない土地。名刺には東京の自宅と並び、糸島のアトリエの住所と電話番号が記されていた。

 夏には友人や知り合いを招き、バーベキューパーティーが催された。美術担当記者の私は15年と19年の会に参加している。野見山さんは最後となった19年はつえをついて登場した。食欲は旺盛で「足腰が弱ってしまって」と笑いながら、浜辺を散策する姿を覚えている。

 誰とでも分け隔てなく接し、大家ぶったところは一切なかった。記事の掲載紙を送ると、ユーモア漂う手書きのはがきが届き、恐縮したものだ。

 最後に言葉を交わしたのは23年4月21日、久留米市美術館(福岡県久留米市)で開かれた美術展「野見山暁治の見た100年」の内覧会場だった。東京美術学校時代の恩師で、明治~昭和の洋画壇に君臨し、第1回文化勲章を受章した藤島武二、岡田三郎助の思い出について尋ねると、「2人とも怖かった」と言いつつ、話が止まらない。衰え知らずの記憶力に驚かされた。

 父親は筑豊で炭鉱を経営していた。幼い頃から父に連れられ、携帯式の手提げランプだけが頼りの暗い空間に身を置いている。人生の原点・炭鉱の記憶を基に生まれた作が少なくない。福岡県立美術館が所蔵する油彩画「廃坑(A)」(1951年)などが好例だ。最晩年に至るまで一貫し、画面を彩った基調色の黒は石炭から着想を得ている。

 「美しい花とか、貴婦人とか、そういったものに僕は全然興味がない。炭鉱にない性質のものは、描く気がしないんです」。10年に東京のアトリエを訪ねた際、本人から聞いた言葉だ。

 鈍い光を放つ色彩と奔放な筆さばきで表される絵画世界には、現代人が失ってしまった原初的なエネルギーがみなぎっている。筑豊のヤマの風土によって人格がはぐくまれ、戦後間もないころから令和の時代に至るまで、トップランナーとして疾走し続けた表現者の代表が野見山さんだった。【渡辺亮一】

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