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「死は避けられない」戦争体験者の高齢化、残された語り部の思い


 戦場の悲惨さを知る同世代が、一人、また一人と減っていく――。戦後78年。太平洋戦争末期の地上戦の体験を伝えてきた語り部たちは高齢となり、今年も元白梅(しらうめ)学徒隊の中山きくさんが1月に94歳で、元ひめゆり学徒隊の本村つるさんが4月に97歳で亡くなった。「非常に寂しいし、悲しい」。元学徒の瀬名波栄喜(せなはえいき)さん(94)=那覇市=は去った仲間たちに思いをはせる。

 瀬名波さんは1944年、沖縄本島中部にあった県立農林学校に入学した。授業があったのは3カ月間だけで、その後は日本軍の飛行場建設などに動員された。

 米軍上陸が迫った45年3月、男子生徒は「農林鉄血勤皇隊」として軍の補助任務に就くことになった。瀬名波さんも入隊予定だったが、「最後に親と面会してきなさい」と言われ、本島北部の実家に帰省。空襲が激しくなり、学校に戻ることができなくなった。

 「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」(生きて捕虜になることは恥だ)。そう説いた日本軍の「戦陣訓」に従い、瀬名波さんは沖縄本島北部の山中を逃げ回った。

 県立農林学校では鉄血勤皇隊として動員された生徒ら124人が亡くなった。学校再開後は「あいつがいない。ああ、あいつもいないのかと、気持ちが重くなった」。卒業後に米国に留学した瀬名波さんは後に琉球大学教授や名桜大学長を務め、沖縄の教育界に貢献してきたが、「優秀な友人たちが生きていれば、沖縄の復興はもっと早かっただろう」と惜しむ。

 沖縄戦当時、県内には21の師範学校や中等学校があり、男女約2000人が軍に学徒動員された。その半数が戦場で命を落とした。

 生き残った元学徒たちは戦後、二度と戦争を繰り返さないようにと、その体験を伝えてきたが、今や90歳を超え、活動できる語り部はごくわずかだ。新型コロナウイルスが感染拡大した2020年以降は活動の機会も大幅に制限された。

 瀬名波さんらは18年、出身校の垣根を越えた「元全学徒の会」を結成。連帯して反戦平和を訴えてきた。しかし、結成から5年で当初のメンバー27人のうち9人が亡くなった。瀬名波さんらと共同代表を務めていた元白梅学徒隊の中山さんもその一人だ。「彼女は多くの犠牲者を出した沖縄本島南部の戦場を経験し、戦後も平和のために一生懸命頑張ってくれた」

 瀬名波さん自身も高血圧に悩まされ、6月上旬には自宅前で倒れて救急搬送された。「死は意識せざるを得ない」と語る。

 瀬名波さんは今、那覇市の首里城地下に眠る日本軍第32軍司令部壕(ごう)の保存と公開を求める活動に、残った力を傾ける。沖縄戦を指揮した牛島満司令官らが拠点とした場所で、「沖縄戦を語る上で欠かせない。戦争体験者はいずれいなくなるが、遺構は沖縄戦の永遠の語り部になりうる」とその意義を語る。

 23日は平和祈念公園を訪れる予定だったが、体調が悪く、自宅で沖縄戦の犠牲者らに手を合わせた。「死は避けられないが、元気である限りは私も頑張りたい」【喜屋武真之介】

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