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機銃掃射、マラリア…510キロ離れた与那国島にも爪痕残した沖縄戦


 1945年4月1日に米軍が沖縄本島に上陸し、約3カ月にわたる日本軍との地上戦となった太平洋戦争末期の沖縄戦。地上戦がなかった沖縄県内の島々にも度々、米軍やイギリス軍の攻撃が加えられた。沖縄本島から約510キロ離れた与那国島でも44年秋以降、集落や日本軍の「見張り所」が攻撃され、避難中にマラリアにかかって命を落とす人も出た。島は日本の国境に位置し、台湾や中国に近い。空襲で家を焼かれた大朝(おおとも)ハツ子さん(87)は言う。「戦争だけは繰り返さないで」

 44年当時、大朝さんは島の国民学校(今の小学校)の3年生だった。カツオ漁師だった父は兵員補充のための「防衛隊」として召集され、母らは学校の運動場で竹やりを突く訓練をするなど、島にも戦争の足音が近付いていた。大朝さんの家では空襲に備え、畑近くに掘っ立て小屋を作って着物や鍋などを運び込んだ。

 44年10月、幼い妹をおぶってガマ(自然洞窟)に向かう途中だった。飛行機の音が聞こえた。空襲警報はなく、集落の人たちは「友軍(日本軍)の飛行機だ」と万歳を繰り返した。その直後、「ピュッ、ピュッ、ピュッ」と音がした。飛行機は米軍の機体で、突然の機銃掃射に、大朝さんは慌ててガマに逃げ込んだ。

 集落には焼夷(しょうい)弾が落とされ、大朝さんの家も焼けた。「高い煙突のカツオ節工場があり、そこを目がけて攻撃された」と大朝さんは振り返る。与那国町史には、44年10月13日、久部良(くぶら)集落が米艦載機に攻撃され、大半が焼失したとある。「あのときは地獄だった」。焼け野原になった光景が大朝さんの記憶に残る。

 一家は焼け残った掘っ立て小屋で生活したが、ガマや山中に避難した住民の中にはマラリアに感染して命を落とす人が出た。大朝さんの同級生もその一人だったという。患者を見舞うために両親が外出する度、幼かった大朝さんは「米軍機の攻撃に遭わないか」と不安に襲われたという。

 空襲はその後も続いた。町史によると、島の宇良部(うらぶ)岳山頂にあった日本軍の見張り所が米軍の攻撃対象となり、兵士が機銃掃射の犠牲となった。45年春になると、米軍に代わってイギリス軍機が飛来し、攻撃を加えた。

 沖縄戦の終結から78年。国境にある与那国島には今、陸上自衛隊の施設が置かれ、ミサイル部隊の配備も計画される。台湾有事の可能性がささやかれ、町は有事に住民が逃げ込むシェルター整備を国に求めている。「お互いが理解しあい、世界がいい方向へ向かってほしい」。島で育つ子や孫の将来を案じ、大朝さんは願う。【宗岡敬介】

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