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「藩主はイノシシ狩りばかり」 熊本の“スパイ”が鹿児島で見たもの


 江戸時代初期、熊本藩から鹿児島に派遣された密偵の報告書が、熊本大所蔵の文書群から発見された。鎖国体制の確立期に、諸外国と結託する恐れのあった鹿児島藩を江戸幕府が警戒する中、隣の熊本藩が「スパイ」を送り込み、幕府と情報共有していたとみられる。

 報告書は、1651年2月27日付。密偵の名は「村田門左衛門」と記され、鹿児島に「潜入」した同年1月17日から2月25日までに見聞した内容を記録。鹿児島との境界に近い葦北(あしきた)地域の役人を通じ、熊本藩の筆頭家老だった松井興長(おきなが)に提出したとみられる。松井家の文書群の一つで、研究員が調査の過程で発見した。

 税制や穀物の相場、島津家家老の役割分担などが細かく書かれ、当時の鹿児島藩主だった島津光久や島津家について、軍備や所有する船舶、財政状況に多くの部分が割かれる。光久の趣味を「お楽しみは、猪(いのしし)狩りばかりなさっていると聞いています」とも触れている。

 1600年代前半、江戸幕府はスペイン、ポルトガルと国交を断絶するなど対外的に激動期にあった一方で、琉球の管理を鹿児島藩に委任するなどした。これに乗じ、琉球を介した密貿易に従事するなどした鹿児島藩は幕藩体制下で「独立国」の様相を呈していた。

 密偵は報告書で、鹿児島藩沿岸に異国船が来訪した時の警備状況を「乗組員が上陸しなければ、御番所からは決して手を出してはいけないとのお触れです」と記述。鹿児島藩が異国船との接触に慎重を期したことがうかがえる。

 江戸幕府は、当時の鹿児島藩が外国勢力と結びついて反旗を翻すことを警戒していたとされ、隣の熊本藩に江戸に伝わる鹿児島藩のうわさや情報を伝え、目付けの役割を期待していたという。熊本藩も、これに乗じて幕府の信頼を得て、地位を確かにしようとしていた面があるようだ。

 報告書には、庶民の暮らしの記述もあった。前年に大規模な虫害が発生したとし、年貢徴収に関して「百姓たちは困っている」などと記録。また、洪水で流れた鹿児島城の石垣の復旧状況や、鹿児島藩が取り締まっていた一向宗について、農民信者の家族を引き離した上で屋久島に島流しにしたことなども明らかになった。

 報告書にある「村田」は家臣の名に見当たらず、「密偵」以上の手がかりはない。名前を変えている可能性があるという。

 鹿児島藩について詳しい原口泉・鹿児島大名誉教授は「鹿児島は密貿易の実態を隠蔽(いんぺい)する必要があり、幕府からの使節が一歩も琉球に入れないよう画策していたほどだった」と密偵の必要性を解説する。

 熊本大によると、江戸時代初期の鹿児島藩の藩政については、幕末~明治期の混乱などで多くの資料が失われたため実態が長く分からなかったという。原口名誉教授は今回の発見を「幕府の鹿児島藩に対する警戒ぶりを物語り、九州の諸藩と江戸幕府の関係など当時を知る上で極めて貴重」と評価した。【中村園子】

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