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開かずの踏切解消「高架は嫌」 闘った下北沢の住民、変えた開発


 かつて東京都世田谷区の下北沢駅周辺の日常風景だった「開かずの踏切」が姿を消したのは、今からちょうど10年前、2013年3月のことだ。駅から北東に約70メートルのところにある踏切は、ラッシュ時に1時間のうち40分以上閉まり住民を悩ませていたが、駅の地下化に伴い撤去された。この踏切から徒歩10分ほどに住む三山幸子さん(67)は「ずっと待たされてイライラしていた。今は便利になった」と振り返る。

 線路や踏切が地上から消え、街は大きく変わった。昨年5月に線路跡地を活用した下北線路街が全面開業するなど、再開発の大きなポイントになった小田急線の地下化は、沿線住民の意見が反映されたものだった。この運動に参加した元区議、木下泰之さん(69)は「(地下化は)住民の勝利といえる」と話す。

 当初、下北沢駅周辺は地下化でなく、高架化の計画が進められた。1964年、小田急線の代々木上原―喜多見間の線路を高架化し、上下2線ずつに増やす複々線化事業が都市計画決定された。69年には開かずの踏切の解消を目指し、国が鉄道を高架化する連続立体交差事業を制度化すると、それと一体的に事業が進められた。

 しかし、一部の住民は「高架だと沿線の家が立ち退かなければならず、騒音も発生する」と反対を表明。70年には事業見直しを求める約3万5000人の署名が区議会に提出されるなど反対運動が広がったが、方針は変わらなかった。

 木下さんは85年に反対運動に加わった。当時、下北沢の近隣に住んでおり、雑多で多様な街の雰囲気を気に入っていた。かつて暮らした杉並・高円寺で鉄道の高架の騒音に悩んだ経験から、運動に積極的に参加。95年には高架化反対などを掲げて区議に初当選し、5期20年務めた。

 木下さんら住民側は90年以降、事業認可取り消しなどを求める訴訟を相次いで起こした。2001年、国の高架事業の認可を取り消す東京地裁判決(高裁、最高裁では住民側敗訴)が出た。実際に工事が進む公共事業の認可を取り消す判決は全国初で、社会的に大きな反響を呼んだ。こうした動きもあり、都は03年、方針を変更して下北沢を含む東北沢―世田谷代田間を地下化する都市計画決定をした。

 住民運動は、その後の開発に大きな影響を与えた。16年、高架化など開発に関する行政訴訟が和解したが、その過程で世田谷区が住民と協働して下北沢のまちづくりを進めると意思表明した。同年、住民や行政らの意見交換の場として「北沢PR戦略会議」(現シモキタリングまちづくり会議)が設置され、開発に住民の意見が取り入れられるようになった。

 小田急が現在、駅周辺の開発を鉄道会社主導ではなく、住民の声を多く取り入れる「支援型開発」という形で進めているのも、この延長線上にある。

 住民や行政、鉄道事業者らが連携し、対立から協働へと変わったシモキタのまちづくり。木下さんは「下北沢の再開発のあり方について、住民側が一定の役割を果たせたと思う。これからもできるだけ下北沢の街らしさを残すようにやってほしい」と期待している。【加藤昌平】

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