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特攻兵器「桜花」設計者の娘が台湾で講演 技術の平和利用訴える


 太平洋戦争中に特攻兵器「桜花(おうか)」などを設計した三木忠直(1909~2005年)の次女で東洋大名誉教授の棚沢直子さん(80)が30日、台北市内で講演した。戦後に三木が開発を主導した新幹線の技術が台湾の高速鉄道に生かされていることを紹介しながら、技術の平和利用の重要性を訴えた。戦前、少年工として桜花の試作に携わった台湾人男性も、会場で棚沢さんの話に聴き入った。

 三木は東京帝国大学卒業後、軍用機の開発を担当する海軍航空技術廠(ぎじゅつしょう)(空技廠、神奈川県横須賀市)で技術士官として、爆撃機「銀河」の設計に当たった。敗色が濃くなった44年には桜花の設計責任者を任されることになる。桜花は搭乗員の生還を前提としない特攻兵器の一つで、機首部分に大型の爆弾を搭載して、母機から切り離された後に敵艦に突入する。沖縄戦などに投入されたが、ほとんど戦果をあげることはなかった。

 講演で棚沢さんは、三木が「意思に反して特攻の加担者の一人になってしまった」との強い自責の念を感じていたのではないかと説明した。その後、三木は「平和利用しかできない」として鉄道に技術者としての道を見つけ、国鉄鉄道技術研究所(当時)で車両構造の研究に取り組んだ。開発に携わった初代の新幹線、0系や小田急電鉄の特急ロマンスカーには航空機設計の経験が生かされたという。

 台湾では07年に新幹線の技術を海外で初めて導入した高速鉄道が開業した。棚沢さんは「技術は本来的にひとを幸せにするものだ。絶対にそうでなくてはならない」と語った三木の言葉を紹介し、台湾の人々が三木の培った技術を生かし続けていることに謝意を示した。

 講演は空技廠で桜花の試作に携わった元「台湾少年工」の東俊賢(とうしゅんけん)さん=台北市=の協力で実現した。日本は戦時中、労働力不足を補うために、植民地だった台湾から少年らを集めて軍需工場などで働かせた。30年に台南郊外に生まれた東さんは桜花の溶接などに当たった後、台湾に戻り、電子部品会社を経営した。三木の神奈川県逗子市の自宅を訪れるなど、何度も交流したという。

 会場で講演を聞いた東さんは「(特攻兵器を開発したことへの)強い後悔を感じながら、平和産業と日本の復興に貢献した三木先生の苦しみは忘れられない。台湾でも、もっと知られてほしい」と語った。【台北・林哲平】

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