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【横浜銀蝿40th】オリジナルメンバーで復活するんで夜露死苦!


1980年代、不良・ツッパリの象徴としてブレイクしたロックンロールバンド

THE CRAZY RIDER 横浜銀蝿 ROLLING SPECIAL』(以下、T.C.R.横浜銀蝿R.S.)が、

結成40周年を迎える2020年にオリジナルメンバー4人で再結成し、『横浜銀蝿40th』として1年間限定で活動する。

横浜銀蝿は、1980年9月にシングル「横須賀Baby」とアルバム『ぶっちぎり』を同時リリースしてデビュー。2nd「ツッパリHigh School Rock'n Roll (登校編)」の大ヒットでブレイクした。

メンバーはリーダーの嵐(らん・ドラム)、翔(しょう・ボーカル/ギター)、TAKU(タク・ベース)、Johnny(ジョニー・ギター)の4人。

リーゼントヘアーにサングラス、革ジャンにドカンと呼ぶ極太の白ズボンを履く、当時の不良をスタイリッシュに魅せるスタイルでテレビに登場すると若者に支持され一躍スターダムにのし上がった。

1983年12月31日、3年3カ月という短い活動期間で日本の音楽シーンに強いインパクトを残して解散する。

その後、翔はソロとして活動、他の3人は音楽プロデューサーとして業界に携わることに。

1998年以降、Johnnyを除く3人でバンド名を幾度か変えながら定期的に活動を続けてきたが、2018年に逝去したT.C.R.横浜銀蝿R.S.の初代ディレクター・水橋春夫氏を偲ぶ会で、約20年ぶりに翔とJohnnyが再会(※Johnnyはレコード会社の社長などで多忙を極める)、これがきっかけで結成40周年の再結成実現となったそうだ。

「横浜銀蝿40th」は、2020年3月より、『横浜銀蝿40th コンサートツアー2020 ~It's Only Rock'n Roll集会 完全復活編 Johnny All Right!~』を全国7カ所で開催する。スタートとなる3月7日(土)横浜市教育会館は、1980年10月25日に初コンサートを行った思い出のホールである。そして、5月16日の東京・Zepp Tokyoまで全7カ所を回る予定だ。

また、ツアー開催に先駆け、2月19日にはニューアルバム(タイトル未定)の発売も決定。

YouTubeではJohnnyが手掛けた嶋大輔のヒット曲「男の勲章」をセルフカバーしたミュージックビデオ(ショートバージョン)が公開されている。

公式HP  https://ginbae.info/

小僧がイライラしていた時代

1980年代前半、10代の若者は荒れていた。不良、校内暴力、暴走族が社会問題となる、ワルがカッコいいと勘違いするおかしな風潮が若者に蔓延し良識ある者が困り果てた時代だった。

そこに登場したのがT.C.R.横浜銀蝿R.S.(以下、銀蝿)である。彼らが歌った「ツッパリHigh School Rock'n Roll (登校編)」はとにかく歌い出しがキャッチーだった。

「♪今日も元気にドカンを決めたらヨーラン背負ってリーゼント!(ヤァ!)」

学生にウケそうな単語が並ぶこの曲に不良ならずとも食いついた、また不良の一日を楽しそうに歌うギャップもヒットの要因だった。

不良モンを歌うにしても、例えば「ツッパリHigh School Rock'n Roll (試験編)」の最初は、

「♪ついにきました試験の季節 たまにゃおやじをよろこばそう」

とあるように、不良でも心の底で思っている心情を代弁していた。

多くの楽曲をよく聴くと、“バイクで爆走”を連想させる曲はいくつかあるが、歌詞には人を傷つけるバイオレンスな描写などは殆どない。基本的に攻撃性や圧力を感じさせず、あくまで気持ちよくロックを奏でるというポリシーが伝わった。

アルバムでは「尻取りROCK'N'ROLL」、「なぞなぞROCK’N’ROLL」など、コミカルな曲も多く、実は切ないラブソングも沢山あるのだ。

メンバー四人、見た目は強面かもしれないが、歌番組に出れば出演者に礼儀正しく、トークも上手で笑顔も見せていた。「ザ・ベストテン(TBS)」では後方の席でアイドル達と話している姿も映っていた。ガラ悪そうだけど気のいいあんちゃんみたいな、そんな親しみやすさも滲み出ていたロックンローラーだった。

しかし、その“見た目”から俄然湧いたのは、やっぱり「不良」である。不良が銀蝿のスタイルを真似して世間を荒らすため、マスコミは「銀蝿は悪を助長している」と叩いた。

銀蝿はコンサートツアーで全国をまわった。そこには不良が集まり時に騒動を起こす。ファン同士でイザコザが起こり、会場周辺の住民などに迷惑をかけた。学校側から生徒へ「横浜銀蝿のコンサートへ行ってはダメ」という忠告が出されたところもあったという。

テレビで銀蝿のドキュメント番組が放送され、その中でコンサートのMC中に、生徒と男性教諭が一緒に来ていることがわかり、ステージとやり取りするシーンが流れた。

翔が先生に「どうしてウチらのコンサート来ちゃいけないって言われるの?」

先生は「身なりが、ガラが良いとはいえない」「でもそれと音楽は違うから見てよと誘われた」というふうに答えた(おぼろげな記憶だが)。

会場の輩から野次が飛んだが、翔は「おい、ちゃんと聞けよ。この先生は生徒の気持ちもわかろうとして見に来てくれてんだぜ。いい先生じゃねえか」、感謝していた。

銀蝿も世間の風評にじれていたんだと思う。

【売れるため作られたバンドだったのか?】

“横浜銀蝿はそもそもツッパリではなく、あのスタイルは売れるために作ったもの”そんな声も聞かれた。

嵐と翔は実兄弟で高校時代から暴走族に入っていた。Johnnyとは高校時代からバンドを組み、音楽活動中にTAKUと知り合い4人が組んだわけだが、リアルなツッパリだったそうだ。「ちょうど時代にマッチした」と後にメンバーは語っている。革ジャンは所属した事務所の社長に買ってもらい衣装にしたという。

ただ、そこらの不良と違うのは4人とも大学へ進学していること。翔は、深夜まで仲間と遊んで帰ってから徹夜で勉強していたそうである。全員、素行は良かったとはいえないかもしれないが勉強の成績は優秀だったそうだ。

また策略家だったことも伺える。

横浜銀蝿は、1980年デビュー時に「2年間で3つの目標を果たし完全燃焼して解散します」と関係者に宣言していた。その3つとは、「シングル1位」「LPレコード1位」「日本武道館を満タンにする」だったが、2年でシングル1位だけ果たせず、悔しいのでもう1年伸ばしてもらった。そして念願のシングル1位を獲得して、活動期間3年3ヶ月で晴れて解散に至った。

ただ、これも最初から、売れても売れなくても2~3年が潮時と考えていたのではないか?と思う。ツッパリは文化でありブームでもあった、これが10年も続くわけがないと時代を読んでいたフシがある。惜しまれて解散すれば、もしのちに復活したとき当時のファンが戻ってきてくれるという思惑もあったはず。だから1998年に活動再開から現在まで、根強いファンは応援してくれるのではないだろうか。

現在、みんな還暦超えのツッパリオヤジジイ(ごめんなさい・笑)だが、まだまだぶっちぎり魂で旋律のハイウェイを爆走中なのである。夜露死苦!

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