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【サンボの神様・ビクトル古賀】41戦41一本勝ち無敗のレジェンドが天国へ


ロシアの国技である格闘技サンボの元世界王者で、日本サンボ連盟顧問のビクトル古賀(日本名・古賀正一)さんが、11月3日に亡くなった。83歳だった。

格闘技界ではレジェンド的存在で、プロレスラー初代タイガーマスクの佐山聡さんや鈴木みのるさんなどを指導し、後進の育成にも尽力。鈴木みのるさんはTwiterで「プロレス界入りにも多大なる協力をしてくれた恩人」とつぶやき、故人を偲んだ。

高校生の時、初めて教えてもらった技がビクトル投げ。腕の取り方や組手の仕方など教えてくれた。デビュー間もない頃、飛びつき十時固めしたら「アレ俺が考えたんだ。それで勝つなんて!」って喜んでくれた。プロレス界入りにも多大なる協力をしてくれた恩人ビクトル古賀さん。御冥福をお祈りします。

うろ覚えだが、サンボについて詳しく書いてあるわけではなく、普通の人、女性でも可能な自己防衛の動きみたいなものがレクチャーしてあった。サブタイトルが「指一本で倒せる力学の応用技」とあるように、相手に勝つには決して力はいらない、技術が重要という術が詳しく書いてあったと記憶している。

じゃあ、「サンボ」って何? 「サンボ」を知りたいという人には、こんな一冊が出ている。

『これがサンボだ!』ビクトル古賀(監修)、佐山聡(1998年)

これはビクトル古賀“監修”で、初代タイガーマスク・佐山聡が主体で作られた一冊。知人に柔道家がいて「これはとても勉強になった」と話していた。自分が有利に持っていく体の動き、相手の力の利用法などがよくわかるとのこと。

サンボは柔道着を少し改良した道着をまとうが、そもそもサンボとは日本の柔道とレスリングなどを合わせ、1920年代に旧ソ連が軍隊格闘術として考案したもの。いわば総合格闘技なわけで、本誌では道着をうまく使った関節技なども紹介していて、総合格闘技を志す人にとってはかなり参考になるとか。

10歳で1000キロを歩く

ビクトル古賀の生い立ちを調べてみると、それは衝撃だった。古賀を取材し克明に記した一冊ある。

『たった独りの引き揚げ隊』石村博子(2009年)

サンボの事よりも幼少時に満州から引き揚げる際の壮絶な日々に焦点が当てられている。

ビクトル古賀は、1935年、旧ソ連ハイラルという地で生まれる。母方の家はロシア皇帝ニコライ2世の近衛兵を務めたコサック(かつてのロシアの農民集団)騎兵隊のトップで、父は筑後柳河藩主立花家の流れを汲む武士の血をひく次男、闘う遺伝子を受け継ぐような混血児だった。

10歳の時、ソ連が満州へ進攻すると状況は一変。家族とはぐれ、一緒に引き揚げるはずだった日本人に裏切られ、仕方なく徒歩で独り錦州という地を目指す。

暴徒に襲われ、陵辱の争いを目の当たりにし、息絶えた多くの死体を避け、魑魅魍魎に包囲されたかのような中、2ヶ月かけて1000キロを歩いてようやく親戚と合流。そして父親の故郷である福岡・柳川にたどり着く。

裏話だが、古賀はロシア人のハーフなので日本人の引き揚げ集団から入ることを拒否された。逆に、集団行動じゃなかったので感染症への罹患を免れた、と本人は話していたそうだ。

幼かった古賀少年がなぜ1000キロを独歩できたのか? そこには祖父から受け継いだコサックの知恵と技術があった。

例えば、水筒を奪われても水には困らなかった。水の在り処は・・・

「川の音は、ブォーンという空気を震わすような独特の響きで伝わってくる。太い川なら十キロ以上先のものも感知できた。その音や匂いで川の規模や流れの様子がイメージできた。どちらが上流でどちらが下流かもわかった。」

例えば、旅の途中で民家を見ると・・・

「煙の具合でロシア人がいるか中国人か判断できる。中国人の家の煙は牛フンや馬フンを燃料にしているので独特の重たい感じ。白樺や石炭を燃やしているロシア人の家の煙は軽くてまっすぐ立っているし、ロシア人は毎日パンを焼くから人が住んでいればかまどの煙が上がる」

中国人の家は危険と判断できたので決して近づかなかった。

風の向きや強さ、太陽の位置、鳥の動き、といった自然の環境から情報を集めて進む方向を見極め、少しでも身の危険を感じれば用心して木陰や草むらに潜んだ。無理せず早めに寝床を見つけて休んだ。このようなコサックのサバイバル術で、大勢の人が死と隣合わせの中を自分は飄々と生き抜いたかのように語られている。ちなみに、この引き揚げで約17万人の日本人が死亡・行方不明になったとされている。

サンボの伝道師に

ビクトル古賀とサンボの伝説にも触れておきたい。

帰国後、東京へ出て、日本大学医学進学課程へ進学しレスリング部に入部。大学卒業後、自らレスリングの実業団チームを創設し実力をつける、と同時に横須賀で柔道にも本格的に取り組む。

1965年、日本レスリング協会の生みの親である八田一朗が日本サンボ連盟を結成。古賀に声がかかり、運命的にソ連のサンボと接することになった。ソ連に渡り本格サンボを習得すると無類の強さを発揮、なんと世界大会3回制覇を含む公式戦41勝無敗、しかもオール1本勝ちという完璧な成績を残した。ビクトル古賀の名前は日本のみならず世界に響き渡った。

そこにこんな逸話がある。

1975年4月、ソ連南西部にある都市マイコープでサンボの「日ソ対抗国際試合」が行われた。1年以上前に現役を引退していた古賀は日本チームの監督として来ていたが、68kg級の選手がケガで出られなくなったため急遽出場を決める。古賀はもう40歳で体重もオーバーしていたが3日間絶食して減量しマットに上がった。

「伝説の男が戻ってきた!」レジェンドの名は知られていて会場は物凄い盛り上がりを見せる。対戦相手は、世界選手権優勝経験もあるタジキスタン出身の強豪だったが、試合開始30秒、相手の仕掛けに鋭く反応すると右足を跳ね上げ、腰の上で敵を反転させ背中からマットに叩きつけた。瞬殺の一本勝ちだった。これで41戦41連続一本勝ち、思わぬカタチで記録を伸ばしたのである。

その年、古賀は功績を讃えられ、西側諸国として初のソ連邦功労スポーツマスター、ソ連邦スポーツ英雄功労賞を贈られた。「サンボの神様」として、その名は今も世界のサンビストの心に刻まれている。

日本サンボ界の未来

IRONMAN(アイアンマン) 2016-04-12 発売号
Fujisan.co.jpより

サンボは世界90カ国で行われていて、競技人口は約70万人と言われている。特に日本はどうしても柔道が馴染み深く、なかなかサンボを志す者も学べる道場も少ないというのが現状で、競技人口は約1,000人だという。

今年11月9~11日、ルーマニア・ブカレストで世界サンボ選手権が開催され、日本から7人の選手が出場したが残念ながら1勝も挙げることができなかった。ビクトル古賀さんもきっと天国からエールを送っているはず。頑張っていこう!

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