■「コンビニ」よりも自販機がいい理由



 



最近の私は、ペットボトルの飲み物を買う時、コンビニよりも自販機を使う事の方が多い。最近のコンビニは、商売としては当然とはいえ、一定の売り上げが見込める人気商品と定番商品、安定した供給が行える大手メーカーといった製品しか置かないせいか、「こんなの出てたのか?」というような驚きはほとんど無いのだ。



 



キリンの「世界のKitchenから」の新作や、伊藤園が時々投入する変わったフレーバーティーはともかく、例えば、季節の果物のジュースや、地域性の高いお茶などは、まずコンビニで見かけることがないのだ。となると、飲み物好きの私としては、自販機を見て、梨のジュースとか、フルーツティー系とかの、あまり見掛けないものを選んで買う事になる。



 



自販機はコンビニとは流通経路が違ったりするため、大手メーカーのコンビニからは弾かれた製品、例えば、販売当初はコンビニにもあった「紅茶花伝 クラフティー(CRAFTEA) 贅沢しぼりオレンジティー」が、未だに普通に入っていたり、山形食品の「山形代表 ら・ふらんす」のような、JAが流通させている地方のメーカーの飲み物が入っていたりするわけだ。



 



 



■アトラクションの一種だった自販機



 



かつて自動販売機は、小売店が少ない場所に設置される、簡易コンビニのようなものだったと思う。雑誌の自販機なんて、その最たるものだ。だから、コンビニが溢れた現在は、あまり見られなくなった。そのもっと前、自販機が登場し始めた頃は、多分、アトラクションの一種のようにも機能していたと思う。



 



ジュースの噴水が乗っている紙コップが出てくるジュースの販売機などが、その代表。缶ジュースの自販機が出てきた頃までは、まだ「自販機で買う」という事がエンターテインメントだったのだ。だからこそ、カップヌードルの自販機が出た時、ビックリしつつ、何だか嬉しくて、意味もなく、あのお湯が出てくる使いにくい自販機で、意味なくカップヌードルを食べていたのだ。



 



外で、弁当代わりに温かいものが食べられる衝撃もあった。あれは、技術の最先端に触れたような歓びだったのかもしれない。振り返るとバカみたいだけど、苦笑いしつつ、カッコいいと秘かに思っていたのだ、当時の子供は。



 



避妊具の自販機のように、買うのが恥ずかしいものを売るタイプもあったけれど、しかし、町の人たちは皆、そこに自販機がある事を知っているわけで、だったらまだ薬局行く方がマシだと、大学生の私は思っていたけれど、アレはどのくらい有効だったのだろう。



 



 



■“最新”に触れる身近な情報源



 



気がつくとタバコの自販機もすっかり見かけなくなってしまった。アレは私がタバコを吸っていた当時、新しい銘柄が出た事を知るためのものだった。スーパーヘビースモーカーだった私は、2カートン以上の買い置きがないと落ち着かず、鞄には必ず5箱くらいタバコを入れていたので、自販機で買うという事はほとんどなかったのだ。しかし、情報源として、とても重宝していた。飲み物の販売機も、そういう側面があったと思う。今ほどコンビニがなかった時代、最新の飲料系に触れる最も身近な情報源が自販機だったのだ。



 



多分、今の自販機は、その役割を変えて、小さな小売店になっているように思う。かつて、小屋にずらりと自販機を並べて「無人販売所」なんて名前を付けていたところがあったけれど、今や、それが洒落ではなく、役割としては、田舎道とかにある無人販売所とほとんど変わらないように思う。だから、駅の自販機には、コンビニにない飲み物がやたらと売っていたりするのだ。「モヤモヤさまぁ~ず2」で注目された1000円自販機のような在り方こそが、今後の自販機の主流なのかも知れない。



 



大量流通大量消費から外れた製品を売るためのソリューションとしての自販機。それは、ガシャポンなどとも近い。というか、多分、ガシャポンという在り方こそが、「どこにでもある自販機」という日本独自の文化の基本なのだ。「妖怪根付」とか「立体浮世絵図鑑」とか、ニッチなものを販売できるのも、自販機という流通形態のおかげなのだ。それが最近では、緊急の際にも役立つ機能まで搭載して、街のあちこちに立っている。これだけコンビニが林立している中で、まだ自販機はなくてはならないものなのだ。だからこそ、自販機は壊されているのが当たり前、という社会にはならないで欲しいなあ。


情報提供元: citrus
記事名:「 コンビニが林立する中、なぜ自動販売機は必要とされるのか?