元々アイドルになる前は、モデルとして活動していた北原佐和子だが、当時同じ事務所に所属していた眞鍋ちえみと三井比佐子と組んで、パンジーというアイドルグループを結成していた。結成当初は3人で楽曲を歌うことは無かったが、テレビ出演などでは、常に3人で出演していた。しかもまだ無名に近いアイドルグループだったにも関わらず、いきなり映画『夏の秘密』の主演に抜擢されたり、24時間テレビのアシスタントに選ばれたりして、アイドルファンの間では注目度はかなり高かった。

 その3人の中でも抜きん出た人気だったのが北原佐和子である。私が北原と初めて会ったのは、1982年に放送された第5回24時間テレビ「愛は地球を救う」(日本テレビ系)の日だった。24時間テレビは、日本武道館で夜から生放送をする番組なので、私はそれを観覧する予定にしていたが、夕方くらいまで時間があったので、麹町にある日本テレビにグッズを見に向かった。

 とりあえずチャリティーTシャツを購入して、何となく日本テレビの前に立っていたら、目の前の玄関から黄色いTシャツを着たカワイイ子が出てきたのだ。良く見ると北原佐和子であり、私は迷わず彼女の元へ近づいてみた。「北原さん」と声を掛けると笑顔で返事をしてくれた。パンジーの3人の中では、ちょっと気が強そうなイメージがあったので、近寄りがたいタイプかと思っていたが、実際に会ってみるとそんなことは一切無かった。そこでサインをもらい写真を撮らせてもらった。「これからボクも武道館に観に行きます」と話すと北原は「嬉しいです。武道館で私のこと探して下さいね」と言葉を掛けられた。舞い上がった私は武道館に到着するや否や北原を探し、見つけた瞬間に「北原さ〜ん」と叫んでいた。その声に気付いた北原は、数時間前の私のことを覚えていてくれて、笑顔で手を振ってくれた。

 個人的に北原の好感度はかなりアップして、北原の出る現場を探してみた。北原は82年組として『マイ・ボーイフレンド』でソロデビューを果たしていて、この年の音楽祭の新人賞候補としてノミネートされている。これまで音楽祭はずっと観に行っていたのだが、申し訳ないがその時点で北原はノーマークだった。それから必死に音楽祭を観に行っていたが、この年は中森明菜や小泉今日子、シブがき隊などのビックネームが揃っていたため、賞獲りレースでは惨敗に終わってしまった。しかし私はそこで北原熱は冷めることは無かったので、翌83年2月に、4枚目のシングル『モナリザの誘惑』の発売記念イベントに出向くことにした。

 場所はサンシャイン噴水広場だったが、その日は開始時間に間に合わなくて、2階のバルコニーでステージを観ることにした。視界は良好だったけど、近くで観れないもどかしさもあった。終了後の握手会で近くで観ることも可能だったが、この日はレコードを買うお金が無くて、話しすらすることができなかった。色々な現場に行っているとお金は掛かるので、当時中学2年生だった私の交通手段は自転車で、交通費というものにお金を使わないようにしていたのだ。なので無料で観れるステージは精力的に行って、レコードなどを買わないで観るだけで帰ることも珍しくはなかった。

 北原はアイドル歌手として85年まで続けたが、大きなヒット曲も出ないまま、85年3月に発売された10枚目のシングル『予感』を最後にアイドル歌手としての活動は終わってしまった。以降は時代劇やサスペンスドラマなどを中心に女優として活躍するようになるが、なぜか犯人役など悪役が多く、本質的な優しい部分を殺したような役柄が多いので、私もドラマを観ていてもどかしさもある。そういう役回りではあるが、女優としての地位も築いているので、女優・北原佐和子を今でも応援している。私にとっては初めて会った時の印象通り優しいお姉さんが北原佐和子なので、どんな役をやろうといつまでも私の中で優しいお姉さんでい続けてくれている。

(ブレーメン大島=毎週土曜日に掲載)

【ブレーメン大島】小学生の頃からアイドル現場に通い、高校時代は『夕やけニャンニャン』に素人ながらレギュラーで出演。同番組の「夕ニャン大相撲」では元レスリング部のテクニックを駆使して、暴れまわった。高校卒業後は芸人、プロレスのリングアナウンサー、放送作家として活動。現在は「プロのアイドルヲタク」としてアイドルをメインに取材するほか、かつて広島カープの応援団にも所属していたほどの熱狂的ファンとしての顔や、自称日本で唯一の盆踊りヲタとしての顔を持つことから、全国を飛び回る生活を送っている。最近、気になるアイドルはNMB48の三田麻央。

【記事提供:リアルライブ】
情報提供元: リアルライブ