今回紹介するのは戦国時代から安土桃山時代(織豊時代)にかけて活躍した茶人・千利休を題材とし1989年に公開された『利休』だ。

 利休役として三國連太郎が主演した同作品は、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が、主導権を握りはじめの頃から、秀吉の逆鱗に触れ、利休が切腹するまでの話となっている。タイトルは「利休」となっているが、実際には秀吉とのダブル主人公のような構図になっており、利休の運命を翻弄する秀吉役は山崎努が演じている。

 利休を題材とした作品といえば、最近では、2013年公開の『利休にたずねよ』が有名だが、この作品が、フィクションを織り交ぜた、色彩重視の作品だとすると、今回紹介する『利休』は、華々しさの中にも、政治闘争や粛正の嵐が渦巻く、重々しい陰が落ちている作品となっている。しかも、利休は傍観者ではなく、その政治闘争の中心にいる人物なのだ。

 現在では後生に残した偉業や文化の影響もあり、利休を茶人(文化人)として認識している人が多いが、その意識のままこの作品を見ると違和感が大きいものとなるだろう。この時代、利休はただの茶人ではないのだ。

 当時利休が豊臣政権下でついていたのは「ご茶頭」で、公儀の茶の湯関連のイベントを統括する、非常に中央に近い役職にいたのだ。そのおかげで内々で、有力な大名や商人と秀吉の間を取り持つ顔役のような役割も担っており、政権内での発言力は決して弱いものではなかった。劇中でも、細川忠興や吉田織部の名前がさり気なく出てくるが、このふたりは、豊臣政権の中央に近い場所にいた中心人物である。こういった部分でも、利休の影響力の強さがうかがえる。

 という訳で、この作品では、茶の湯の話よりも政治関連の話が中心になっている。当時の文化の華やかな感じは、あまりクローズアップされないので注意が必要だ。むしろ、利休に集まる人望に対して、嫉妬心とも思えるような勢いで接する秀吉と、どう接していくのかが、作品の魅力となっている。

 ここで重要となってくるのが、話の中心となる、利休の性格付けだ。他の創作物の利休というと、元々秀吉の主君だった織田信長のご茶頭だったことや、利休のルーツである、中央勢力にあまり影響されず、独立性を重んずる堺商人の性格を反映して、秀吉にも怯えずに辛らつな言葉を浴びせる利休像というのが、定番となっている。しかし、この作品の利休はあまり多くを語らない。もちろん秀吉に対して不満がない訳ではないので、利休を演じる三國は、息づかいや、動きの細やかの変化のみで、感情の揺らぎを表現している。その利休に対し、秀吉は終始感情むき出しという感じで、この対照的な2人の掛け合いが、緊迫感を煽り、この作品の会話劇のクオリティーを高いものとしている。

 とは言っても、秀吉に対しての嫌がらせというか、暗に「暴走は控えるべき」という投げかけはしっかりしている。そのおかげで、変に説明台詞過多になるわずらわしさもなく、利休演じる、三國の表情だけに集中できる。奉行衆の石田三成や前田玄以に対する扱いも同様で、さり気ない台詞の中に皮肉が含まれているので注目してもらいたい。

 また、この感情を表に出さない利休は、クライマックスシーンに向けての良いタメにもなっている。利休の切腹を命じられた経緯は諸説あるが、この作品では、唐御陣(朝鮮出兵)の対しての批判と、自身の雪駄履きの木像を楼門の2階に設置し、その下を秀吉に通らせたという疑いによるものが大きな原因となっている。利休は一度蟄居を命じられ、その後切腹となるが、劇中では、その前に妻であるりきが、秀吉に謝罪し、罪を許してもらうように促す。しかし利休はこれを、「一度頭を下げれば後は這いつくばって歩かなければならないのだ」と拒否するのだ。この感情むき出しの台詞が、最期まで己を曲げなかったことで、ラストシーンで死地に赴く利休の背中を、印象深いものとしている。

 とはいっても、帯に短し、たすきに長しというほどではないが、中途半端になっている部分があるにはある。政治闘争の部分で、利休が切腹に至った経緯までの描写不足が気になる。利休の立場を悪くするのは、この作品では主に石田三成と前田玄以なのだが、この2人の暗躍ぶりが物足りない。しかし、全編通して観ると他のシーンも利休と秀吉の関係が悪くなることを説明するために必要な部分ばかりで、捨てシーンといえるものがほぼない。そう考えると、尺の問題を考えると仕方なかったのかもしれないが、もう少し重厚さが欲しかった。

 ほかにも、この作品では、秀吉にもスポットが当たっているため、秀吉の取り巻きが振り回される描写が少ないのも残念だ。例えば、唐御陣の準備で、無理難題を言われ苦悩する小西行長や、バテレン追放令の際に、秀吉が棄教を迫り、苦境に立たされるキリシタン大名の高山右近など、秀吉の強引さがもっと伝わってくるシーンがあればさらに良かったのだが。また、秀吉が若干オーバーでデフォルメしすぎている点の若干くどい。母親である大政所相手や弟の豊臣秀長に接する部分はいいのだが、このテンションで、他の家臣にも接するので、それは諸大名を束ねる最高権力者としてはどうなのだろう。

(斎藤雅道=毎週金曜日に掲載)

【記事提供:リアルライブ】
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